「合気道で一番強い技はなんですか?」
「それは自分を殺しに来た相手と友達になることさ」
不世出の天才と呼ばれた合気道家塩田剛三の言葉。
確かに友達になれれば、襲われることはないだろう。自分も相手も傷つくことはない。だけどその裏には「武」の裏づけがあることを忘れてはいけない。武道の達人を相手に襲い掛かろうという人は普通はいないもの。「武」の原意は「矛を収める」という意味。相手の攻撃から身を守るのが本来の姿。
合気道は基本的に受けの武道であって自分から攻めることはないという。これは国でいえば、抑止力としての武装の考え方そのもの。今でいえば核抑止力がそれにあたるだろう。
自衛隊は、その理念としては「専守防衛」で「矛を収めるという意味での《武》」だけれど、肝心なのはその《武》が敵国の攻撃から身を守りえるに十分なものかどうかということ。
核保有国同士の戦争が起こらないのは、互いに一撃必殺の技を持っているが故に手を出せない、出しにくいだけ。相打ちして共に斃れる危険が大きいということが抑止力として働く。
だけどかたや一撃必殺の技があり、もう一方がそれを持たないときは、持たざる側は簡単にその技で殺されてしまう危険に晒される。
そうしたとき、一撃必殺の技を持たない方は、自分の身を守るために、他の仲間を集めてみたり、一撃必殺の技を持つ達人に助っ人に立ってもらったりする。集団安保や軍事同盟を結ぶ。
自分自身または仲間の協力を得て、相手と対等か、完全に封殺できる武力を持って始めて、武を《武》として治め得ることができる。あるけど使わないのと、なくて使えないとの差は果てしなく大きい。
「勝つとか負けるとかは、じつにくだらないことです。一個の地球の上に住む人間同士で争うなんて馬鹿げています。合気道には試合がありませんが、私はそれは非常によいことだと思います。
・・・確かに合気道は秀れた武道です。その理合は一撃必殺の威力をもたらします。しかし、もはや合気道を闘いの武器として用いる時代は終わりです。武術としての合気道は、私で終わったのです。
それよりも、日々、合気道の素晴らしい技を修練することによって、その深遠なる和の理合を身心に宿し身をもって和合を実践することこそが、二十一世紀に向けての合気道の役割だと私は思います。」
塩田剛三師はこんな言葉を残しているけれど、軍事力を闘いの武器として用いる時代を終わらせるためには、「試合がない」すなわち「戦争という手段」がない世界を是とし、すべての国がそれを実行することでしか成し得ない。
それができないうちは、軍事力の均衡による「睨みあいの平和」か、超大国の軍事的一極支配による「逆らえない平和」でしか、平和を作り出すことは難しい。現にアメリカの軍事プレゼンスの後退に合わせるかように地域紛争、民族主義、全体主義が首をもたげてる。
日本の国防姿勢である、専守防衛、いわば合気道の精神は《武》としては理想であるけれど、理想であるが故に現実世界とは乖離している。
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