また、市場原理主義の解釈が間違っていたのかどうかについては、一概に言うのは難しい。
市場原理主義が広く知られるようになったのは、1998年にジョージ・ソロスが著書の中で、19世紀におけるレッセフェールの概念のより良い表現として市場原理主義を紹介したことに端を発するとされている。
レッセフェールとは、要は市場に任せて、政府はなにもするな「なすに任せよ」ということだから、その解釈は、市場に参加する個々人に委ねられる。自由主義下では市場に参加するもしないも個人の自由だから、実に様々な人が参画してくる。欲にかられた人もいれば、高貴な人もいる。
だから、市場原理主義の解釈は、個々人の様々な解釈が混在した集積した結果として表れることになる。必然的に、市場原理主義とはこうなのだ、と何かひとつに絞るのは難しい。
個々人の意見の集積が市場全体に反映するという意味において、市場原理主義は民主主義と非常に似通っている。だけどものすごく大きく違う点がひとつある。一票の格差がそれ。
民主主義社会での選挙なんかでは、どんな人でも必ず一票が与えられている。金持ち貧乏人関係なく、一票は必ず割り当てられている。
だけど、市場原理主義においてはそんなことはない。持てる票数は、その人の財力に比例する。本人が市場に投入できるお金の額がそのまま票数になる。
たとえば、一千億円を運用している資産家の票は一千億票だし、百万円を運用している人の票は百万票。だから市場原理で選挙をすると、当然金持ちが当選しやすい。
大金持ちがその財力にものを言わせて、どこかの企業の大株主になってしまえば、自分の子飼いの取締役をその企業に送り込んで、自分の意見を反映させることができるようになる。ひいては、金持ちの意見が市場の意見になるようになってゆく。
だから、市場原理主義だといって、見た目には広く一般に開放されているようにみえるけれど、その実態は政治的にみれば寡頭制であって、民主制じゃない。
さらに性質(たち)が悪いのは、政治であれば、選挙という民意を問う機会があるのに対して、市場原理主義の勝利者、権力者にはそれがないということ。
ゆえに、市場原理主義においては、勝利者は勝利すればするほど、よりモラル、ノブレス・オブリージュが求められる。市場原理主義の勝利者が自らの欲望のままにその力を振るえば、経済における少数独裁の恐怖社会が生まれてしまうから。
だからといって、金持ちなんか作らなければいいのだ、お金は完全に平等配分にして、誰でも一票だけ持てるようすればいいんだと考えると、今度は共産原理主義が出来上がることになる。

この記事へのコメント
日比野
それに対して、この記事で私がイメージしていたのは、候補者を立てる、もしくは応援する側が「誰を候補として立てるか」という観点です。
もちろん、候補者は国民の生活のために、立候補するのですから(建前上は)、どんな商品を開発して、市場に投入するかということは、国民生活を念頭に置く限りは、消費者側に立ったものになると思います。
それとは別に、なにか特定の利権を確保するための候補者を擁立する場合になると、途端に生産者側の論理となって、特定の利権集団や一握りの大金持ちの嗜好に沿った商品が市場に出ることになります。
問題は、そうした商品が消費者の選択できるもの、つまり要らなければ買わなくても構わないものであればよいのですが、生活必需品となるとそうはいきません。
水・食糧やエネルギー、資源といった、他に代替しがたく、かつ必要不可欠なもの。こうしたものが市場原理主義の勝利者に握られた場合は、その勝利者の意によって消費者は振り回されることになります。
かせっち
市場原理主義は寡頭制でも民主制でもなく、ホッブズの言う「自然状態」―――「万人の万人に対する戦争」に近いと感じます。それは正に弱肉強食の世界ですが、餌となる弱者がいなくなった時、強者も生き残れません。つまりシステムとして長続きはしない状態です。
例えば昨今の金融危機の発端であるサブプライムローンは、金融界の強者が市井の弱者に暴利の住宅ローンを売りつけるビジネスモデルです。ここに関わるプレーヤーは揃いも揃って自分の益しか考えない、正に「自然状態」と呼ぶに相応しい。
そしてサブプライムローンのビジネスモデルは、市井の弱者が家を買わなくなって住宅価格が下落を始めたことで、ビジネスモデルが逆回転をはじめ、巡り巡って金融界の強者すら破滅の淵に追いやっている。「自然状態」が長続きしない好例と言えましょう。