理がそれほど強くない和の国では、互いの理が衝突する可能性は比較的小さくなる。だけどそんな和の国にだって当然弱点はある。
和というのは調和だから、なにか理想調和というような、姿かたちのある固まった何かがあるわけじゃない。調和は様々な意見や要求の中から、集団全体としてバランスのとれた均衡点の上に存在するもの。調和は、たとえ求めるべき、向かうべき目標であったとしても、与えられた環境に対して、手を尽くして調和を実現した先にある姿。結果としてあるもの。だから調和は個別の集団毎に存在するし、集団をどの範囲まで考えるかで、あらわれてくる調和の姿も異なってくる。
たとえば、右翼の範疇に入る集団の中での調和を考えてみると、極右や中道寄りの右翼がいる中での調和がとれる均衡点がどこかに存在する。これは左翼でも同じ。右翼の集団における調和の姿と、左翼の集団における調和もどちらも調和には違いないけれど、互いの姿は全然違ったものになるだろうことは言うまでもない。
だから、和を行動基準においた交渉は、どうしても相手の要求を聞ける範囲では聞いてしまうという弱点を持つことになる。
福田前総理の外交路線は、外から見える姿から判断する限り、この和を行動基準においた全方位外交だったといえる。この全方位型の調和外交は、先にも述べたとおり、相手の要求を聞ける範囲で聞かざるを得ない反面、誰も敵にしないという利点がある。
福田前総理の全方位外交は、世界秩序が揺らぎ、嵐が吹き荒れる中、じっと身を屈めてやり過ごすことで日本を守った。それもひとつの方法。
相手の要求を聞いても国益が確保できるのであればまだいいのだけれど、そうでない場合はよくよく注意して、譲れない部分は持っていないと国益を大きく毀損することもある。聞けない部分というのは、基準がはっきりしているもの、あるべき姿として明示されているもの。
いろいろ見てきたけれど、もちろん、実際の国はこんな簡単に、また極端に色分けできる訳じゃない。だけど、国家成立の根拠にまで遡ると、やはりこういった色合いというものはあるように思う。理を国家成立の根源に持つ国はやはり理を大切にするし、和を伝統的に国家として保持している国はやはり考え方として和を基準にしてしまう。
当たり前のことだけれど、アメリカの覇権が衰退して世界が混乱期に入りつつある今だからこそ、理と和、利と情それぞれの特徴と弱点をしっかりと認識しつつ、今まで以上に慎重な国家運営の必要が高まっているといえるのだろう。

この記事へのコメント
カッパ
「聖書」や「古事記」…ある民族の性質を考える時、その民族の神話を知ることはとても大切ですね。そこにその民族のエッセンスがすべて詰まっています。
日比野
国家間の交渉で考えたときに、この民族的性質はなかなか抜けがたく、どうしても思考がそのようになってしまうようにも思います。グローバルスタンダードとかよくいいますが、そんな制度的なものよりも、世界はこういう考えをするのだ、ということを教養として身につけておくべきなのかもしれませんね。
今後ともよろしくお願いいたします。