同じく、理と和、そして利と情のそれぞれの行動理念を持つ国と民主主義との関係を振り返ってみる。
①民主主義な理の国
民主主義というのも、一種の理。だから、国家の理と個人の理が互いに相反してぶつかる場合は双方の調整が必要になる。尤も民主主義は無論、民の考えを主とする理だから、この場合は個人の理を優先することになる。また、個人の理といっても個人の考えは様々だから、全体としての国家の理は多数決なり何なりで代表される全体の民意を反映することになる。
もちろん、理の国が全体主義になってしまった場合は言うまでもなく、個人の理よりも国家の理が優先されることになる。
②民主主義な和の国
お互いの関係を重視して、妥協点・均衡点を模索しながら調和を作り出す和の国は、互いの均衡点を探すという意味で既に民主的。だから、和を重視する考えの上に民主主義を乗っけること自身にそれほど反発は起こらない。だけど、個々人の理があいまいであったり理がなかったりする場合は、長いものには巻かれろとばかり容易に周囲の意見に同調してしまう。事大主義に陥る危険を孕んでいる。また和の国が全体主義になる場合は、周囲の意見がなんとなくただひとつの意見に集約するように世論誘導を行うことで達成される。
③民主主義な利の国
利の国が民主主義になる場合は、その判断基準、行動基準は明快。利益を得られるか得られないか。金になるかならないかがその基準になる。だからこの場合の行動はより利益を得るための目的合理性に沿った行動になるし、非効率なものは叩かれて修正を余儀なくされる。国力の増強という意味では非常に効果を発揮するのだけれど、その反面、利益をもたらす存在を優遇することになるから勝者と敗者を明確に分ける傾向が出てくる。この傾向が行き過ぎると自分のことや自国のことのみ考え、他国の利益や共存共栄といった考えが無くなってゆく。その行き着くところは一人勝ちの世界。その最後の勝者がその勝ちで得た褒美を社会に適切に還元できないと、少数が多数を支配してしまうような社会になることだってある。
④民主主義な情の国
情の国が民主主義になった場合は少し厄介。ひとつひとつの判断が情に流されるということを意味するから、健全な国家運営は難しくなる。民主国家の場合だとさらにそう。たとえば、政府が他国との交渉で何かを譲る代わりに何かを得るといった、ごく普通の二国間交渉を成立させたとしても、大衆がその譲った事柄に反発した場合、それに対する説明に苦慮することになる。酷い場合には、国家元首が罷免されることだってあり得る。この場合はよくよく国民が冷静な判断を下せるように教育していかないと簡単に衆愚制に陥ってしまう危険を孕んでいる。

この記事へのコメント
美月
「和」の精神や、いわゆる有名な「自由・平等・博愛」の精神といった一見穏やかそうな内容でも、極端に流れると、必然としてゆがみが出る…と。今の世界の国々は、建前・擬似にせよ、殆どが民主主義タイプを採用している…という事実を考えると、この状態は、かえって不気味なまでの不安因子をはらんでいるのかも知れません…
その不安因子が如何なる物か…をまだ描写できない状態ですが、よくよく心に留めておきたいと思いました。普段は心にも浮かばないような事を考えるきっかけになりました。
感謝です^^
かせっち
冷戦終結直後に書かれた本ですが、『歴史の終わり』(フランシス・フクヤマ)という本をお勧めします。
本の内容や、筆者が一時ネオコンに与していたことなどもあって、「共産主義国家の崩壊!アメリカ民主主義マンセー!」的な一面的な解釈をされやすい本なのですが、民主主義の過去・現在・未来について深い考察をした本です。
ただ、フクヤマ氏は日系3世ですが、マインドは完全にアメリカナイズされていて、筆者の考える民主主義は欧米の思考の上に成り立ったもので、それが抱える限界に答えを出し切れていないように、私は感じました。
以上、ご参考まで。
日比野
民主主義も民が主である以上、その民の性格が反映されてしまうのも、至極当然なのかもしれません。欧米諸国はスポーツでも国際規定でも自分の都合が悪くなるとホイホイとルールを変えてしまいますが、無視してルールを破るのではなく、わざわざ「変更」という手段をとるのも、理の国ゆえのことなのかな、とも思います。