理の国(国家の性格について考える その5)


もうひとつ、利でも、情でも、和でもない行動原理がある。「理」がそれ。国家理念というか何がしかの理念を基に建国されたような国、人権を掲げたフランスとか、自由を掲げたアメリカとか。

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アメリカの建国理念は、神に祝福された新しい理想の国を作るという理念で、自由と民主主義という理念。それが建前となって国が作られている。だからその言葉は建前であったとしても、自由と民主を守るものでなくてはならず、それに沿ったものとなる。

自由が自由としてその力を発揮するためには、自由に対する責任が果たされないといけない。皆が自由に好き勝手にふるまって、その責任を本人が負うことがなければ、社会は無茶苦茶になってしまうから。

また、理は合理の理でもあるから、その言葉の内容には、情の入りこむ余地は少なくなって、もっぱら理に適ったものになる。

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さらに合理の理は利にも通じていて、ここでは、数字的な利害得失といったものにもシビアに判断を下すことになる。だけど自由と民主という理に裏打ちされた利は合理ではあるけれど、同時に理念も体現しないといけない。だから、理の国の言葉は、利であると同時にその言葉には必然的に責任が伴う。結果的に言葉は真実を語るツールとして使われることになる。

もともとの立ち位置と目的は異なっているのだけれど、「和」の国の言葉も「理」の国の言葉もそれぞれの目的や理念を守るために、どちらの言葉も真実を映すものとして扱われる。

これは、言葉を戦略兵器として扱う「情」の国や「利」の国とは決定的に異なる点。

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