
「魔物がいたほうが話が早くていいですね。だからマウンドのピッチャーががっくりしてても、いや"魔物"がいるんだ。だから思い切って投げろと。お前が悪いんじゃない。相手が良いわけでもない。魔物なんだ。・・・
・・・性格的にピッチャーは、、ほんとすごい、こう、ほんとここでも全然違いますけど、、性格がね・・・逆に魔物がいたと思ってたほうが、僕たちもやり易いね。・・・」
1999年にテレビでやった「南原プロ野球研究所・プロ野球討論会」で、野球の格言は本当なのかをテーマに議論していたとき「球場には魔物が棲んでいる」という格言の是非の話になった。そのときのヤクルト古田選手(当時)の半分冗談めかした発言。
縁起の法を無視して、自分や他人じゃない何かのせいにして、それで納得させてしまうやり方は確かに楽ではあるけれど、それは半ば思考停止であって、そこから未来を変える力は得られない。
こうした人知の及ばない何かに責任転嫁してしまう考え方が怖いのは、何がしかの意図をもった誰かに簡単に操られてしまうようになること。
たとえば、何かの陰謀(論)者が終末思想を利用しようしたら、地球の危機が現実になりかねない。
終末思想って、要は「この世の終わり」のこと。特にキリスト教文化圏では割りと根強い思想。黙示録に描かれているような世界。沢山の人が劫火に焼かれて、人類滅亡かというときに、イエス・キリストが復活し、人類を救済して千年王国をつくるのだ、と。
仏教や儒教では、そこまではっきりとした終末思想はないから、アジアなどではそうした文化が根付いていない。だから、終末思想が仏教圏や儒教圏で広まることがあるとすれば、もう少し別の形を取ることになる。○○の予言とか、ニューエイジ思想とか。
日本だと、20世紀末に流行った「ノストラダムスの大予言」の中の一節にある「恐怖の大王」って何だ、って騒がれたりしていたけれど、核ミサイルじゃないかとか、いやいや巨大隕石だ、なんて言われていた。
万が一そんなことが本当に起こるとしても、人々の心が終末思想に囚われていると、これも運命なのだ、と思って未来を変えようとはしなくなる。
もっとも当の予言者は、未来がそうならないための警告として予言しているのだ、というのだけれど。

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