共業と不共業(運命について考える その2)


運命に有効範囲や賞味期限があるとするなら、それは物理法則のような永遠不変の法則ではないということ。必然的にそれは運命そのものに、その運命自身の生成原因と寿命があることを示してる。

運命は、人や人が作り出した社会に依拠して始めて存在できるもの。人や人の意思が全く介在しない状態で、何がしかの運動をしたり、変化したりするものがあるとすれば、それは運命ではなくて法則。人が居ようが居まいが存在するもの。

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だから、運命の有効範囲や賞味期限は、人々の考えや人々がこれまで考え、行い、積み重ねてきたものの集積によって、その範囲と期限が規定されることになる。仏教的にいえば業(カルマ)がそれにあたる。

仏教では、業(カルマ)というものを、行為それ自身と捉え、単なる業としてだけでなく、業(カルマ)が及ぼす力があると考えた。そしてその業は、心を動かし(意業)、言葉になり(口業)、行動に現われる(身業)としている。

つまり、人の社会や人が生きてゆく中で、考え、語り、行ってきたものの積み重ねが業(カルマ)となって、それがまた人々に影響を与えるという考え。これは善因善果・悪因悪果といった、縁起の考えそのもの。

だから、運命というものは、縁起の法に則って積み重ねられてゆく業(カルマ)によって生成された結果であって、原因じゃない。

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さらに仏教では、この業(カルマ)を、社会全体、人類全体というような、大勢の人々に共通の結果を引き起こす業(カルマ)と、自分だけに起こり、他人や社会には共通しない結果を引き起こす業(カルマ)と二つに分け、前者を「共業」、後者の個人の業を「不共業」と呼んでいる。

たとえば、ある人が清く正しく生きて、善因善果を積み重ねていたとしても、その人の生きている国が戦乱の中にあったら、かなりの確率で戦(いくさ)に巻き込まれてしまう。逃げたくても簡単にできることじゃない。

この人は個人の生き方という「不共業」レベルでは善行を重ねて、幸運な結果を招き寄せる筈なのだけれど、また同時に、その戦乱の時代という「共業」レベルで、なかなかに避けることのできない不幸な結果の渦中にある。

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