
暴力によって人の口に戸を立てることができたとしても、心の中まで封じることはできない。
言葉の暴力を受けたとき、その対応は人によって様々になるものだけれど、その人の立場によっては、きちんと反論しないととんでもない事態を招くことがある。
普通、権力者はいろんなところから、あらゆる非難をうけるものだけれど、行き過ぎたものや、間違ったものに対してはきちんと反論すべき。それは組織を守り、国民を守り、国を護ることに繋がるから。
それを「大人げない」と言うのは、個人と公人の立場の違いを混同している。
明らかに国民を害し、国益を損なうような発言に対して、いちいち反論することが「大人げない」というのであれば、他国との外交交渉なんて出来っこない。相手の言うことを全部聞かなくてはいけなくなる。
橋下知事の「朝日新聞のような大人が増えれば日本はだめになる」発言にしても、中川金融・財務大臣の「世界に発信する場という認識で国旗掲揚は当然だ」発言にしても、少なくとも、発言を素直に受け取る限り、国を守るという意味の言葉であることは確か。
それが違うというのであれば、正々堂々と公開討論でもなんでもやればいい。
国民は冷静に見ているし、きっと正しい判断を下すだろう。大切なのは情報を隠さないこと、正しい情報があって正しい判断が下せる。
言葉狩りや揚げ足取りに易々と乗せられるほど、国民は腐ってはいない。

この記事へのコメント
かせっち
手前味噌ご容赦
http://kyo-yota-blog.seesaa.net/article/32372145.html
日比野
ネット君臨の記事、私も読んでいました。暴力で決着をつけた昔と比べてまだましになったとはいえ、言論による社会的抹殺という意味では確かに凶器にもなることは必然です。
武器の使用は、民主国家では文民統制によって厳重に管理されていますが、ペンを持つものに対する持たないものへ言論武器使用に関する統制はこれまでなおざりにされてきました。ここにきてネットの登場で少しずつそれが崩されてきているように思います。既存のペンを持つものは、焦っているかもしれませんね。