田母神論文問題について最終回のエントリーでのコメントのやり取りを受けて、補追します。
東京裁判とそれに基づいた歴史観、これらによって現在の日本の外交的選択権は狭められている。
東京裁判では連合国によって「平和に対する罪」「殺人と通例の戦争犯罪」「人道に対する罪」によって裁判が行われ、判決がくだされた。
ここで大切なことは、裁判と判決は違うということ。
裁判は訴訟を審理して法律に基づいた判断を行なうこと。判決はその判断に基づいた罰則。
あくまでも裁判は法に照らして判断する業務であって、真実を決めるものじゃない。たとえ、訴訟内容が無茶苦茶に見えるものであったとしても、法に照らして判断する業務そのものが影響を受けることはない。
電子レンジで濡れた猫をチンして殺してしまった人が電子レンジメーカーを訴えたとしても、その訴訟が受理されてしまえば、審理は行われ何がしかの判決が出る。
だから、被告にとっては、訴訟自体が全然納得できないものだって当然ある。だけど一旦判決が出てしまったら、どんなに納得できなくても判決には従わなくちゃならない。もし被告がそれに従わず、国家がそれを放置するならば、その国は法治国家じゃない。
東京裁判についても同じことが言える。
渡辺昇一氏は東京裁判について、日本は「諸判決」を受け入れただけであって、裁判を肯定しているわけではなかった筈が、外務省が裁判と判決を混同したところから間違いが始まったと指摘している。
つまり日本は、連合国側の言い分はまったく承服しないし、納得もしていないが、「判決」だけは受け入れる、というのが東京裁判における当時の日本の立場だった。
渡辺昇一氏は、ソクラテスの弁明や戸塚ヨットスクールの例をあげて、裁判と判決の違いを述べている。少し長いが引用する。
『ソクラテスはアテネの裁判で、青年を堕落させたというような罪で死刑を宣告され、獄に入れられた。ソクラテスもその弟子たちもその裁判には不服である。ソクラテスは脱獄をすすめられた。しかしソクラテスはそれを拒否する。「この裁判は受諾し難いが、その判決を受諾しなければ、法治国家は成り立たないからだ」と言ったのだ。
裁判と判決の違いの現代的例を一つあげておく。これは前にあげたこともあるが、実にわかり易(やす)い例なので、外務省の人にも容易に納得していただけると思う。
戸塚ヨットスクールで生徒が亡くなったので、戸塚宏氏は暴行致死、監禁致死で告発され、入獄数年の刑に処せられた。彼は裁判に納得しなかったが、法治国家の市民として判決に服して入獄した(ソクラテスと同じ)。獄中で彼は模範囚であり、何度も刑期短縮の機会を提供された。しかし、彼はすべて拒否した。というのは刑期を短縮してもらうためには「恐れ入りました」と言って裁判を認めなければならない。彼は業務上過失致死以外の罪状に服することを拒否し、刑期を満期勤め上げて出てきた。』
日本側からみれば、真実とは別に世界秩序を法治として成立せしめるために、判決だけを受諾した、ということ。
ここで、田母神論文問題に戻って、東京裁判における日本の立場を田母神氏に置き換えてみると、驚くほど同じ構図になることが分かる。
田母神氏にとって、自分の論文を理由もなく否定されるという「裁判」は到底受諾できるものではないし、その理由を聞かせてほしいと再三再四訴えていたけれど、とうとうその理由が明かされることはなかった。だけど、田母神氏は、その「裁判」の判決である「幕僚長更迭」に従った。脱獄のすすめを拒否したソクラテスや、刑期短縮の機会を拒否した戸塚宏氏と同じく、自らの辞表の提出を拒否して。
ソクラテスと同じく「裁判」は受諾しないが、更迭という「判決」を受け入れることで法治国家のルールを守った。
田母神氏問題は、東京裁判の縮図でもある。

この記事へのコメント
日比野
こんにちは。ご丁寧かつ核心を突くご指摘ありがとうございます。
>そもそも日本語の「裁判」と「判決」のそれぞれ持っている意味の範囲と、該当する複数の英単語のそれぞれの意味の範囲がそもそも違うので、これが混同や誤訳かと言えばそうとも言いきれないように思います。
既にこの時点でコンテクストのズレがあるということですね。
ニュアンスの違い、解釈の違いは、その国の都合のよいように解釈していると思ったほうがよさそうですね。
とすると、プロパガンダなどで、自国に都合のよい解釈をいかに世界に広めるか、または、そう思わせるように仕向けることが大切になってきますね。
少なくともこの面では中国にやられっぱなしのようです。
かっぱ
雑誌「WILL」12月号で渡部昇一氏の論文読みました。
>この時点で日本の外務省の正式見解は、裁判と判決をごっちゃにしているという致命的な誤りを犯しているのである。
これは無知からなされたものなのでしょうか? 確信犯のような気がしてなりません。
文太
この「裁判」と「判決」の問題は、祥平さんのコメント欄でやまとさんが紹介していたウェブサイトでも、佐藤一男氏の『世界がさばく東京裁判』の引用で言及されていましたが、そもそも日本語の「裁判」と「判決」のそれぞれ持っている意味の範囲と、該当する複数の英単語のそれぞれの意味の範囲がそもそも違うので、これが混同や誤訳かと言えばそうとも言いきれないように思います。
「judgment」という単語は「罰則としての判決」よりもむしろ「判断・決定」のニュアンスであり、日比野さんの指摘された「裁判は訴訟を審理して法律に基づいた判断を行うこと」に関してはむしろ「judgment」の方がニュアンスが近いようにも思えます。
一方「法に照らして判断する業務」としての「裁判」なら「trial」(試験・試み) 「proceeding」(続行) の方が近いかもしれません。