村山談話も、この味噌徳利、究極の徳利として考えればいい。
村山談話を一言でいうと、過去に対する謝罪と戦後の日本は戦前とは違うんだという宣言。この宣言そのものは世界からみたロジック、現時点でのグローバルに通用している正義と合致するから、談話そのものにケチを付けられることはない。
世界は、徳利を煮たり焼いたり、飴や辛子を塗ったりして、作り変わったことにしているし、そう見られている。
だけど、それは味噌が詰まった究極の徳利。その味噌の味は比類なき至高の味わい。
そんな味噌をわざわざ、なにか他のものとすっかり入れ替えるなんて愚かなこと。徳利には相手の気に入る飴でも辛子でもなんでも付けさせておいて、ご機嫌を取っておけばいい。
村山談話は、徳利についた塩のようなもの。外見えなんかどうだっていい。中の味噌こそが大切。
もし村山談話がデメリットに働くことがあるとすると、徳利に付いたの飴や辛子が本物だと思って、中の味噌と入れ替えようとするとき。
米スタンフォード大学の高校歴史教科書比較研究プロジェクトで明らかなように、日本の歴史教科書は単なる歴史記述に留まっていて、愛国教育は特にしていない。だけど、日本の歴史・伝統文化までも一切否定しているわけでもないし、建築や伝統文化を破壊しているわけでもない。徳利の中の味噌を捨ててはいない。
2008年11月にNPO法人「広報駆け込み寺」がインターネットを通じて20歳以上の男女1030人にアンケート調査を行ったところ、8割超が「日本が好き」「日本に生まれて良かった」と考えていると報告している。これは特に愛国教育を行っていない現状では特筆すべきこと。
アンケートでは「日本が世界に誇れるもの」として、ともに94%が「伝統文化」「伝統工芸」を挙げたそうだから、普段の生活の中で日本に対する誇りが自然と培われていることを如実に示してしている。これも徳利の味噌の芳醇な香りや味を普段から味わうことが出来ればこそ。
その芳醇な味噌の香りは周りに広がって、いまや世界中の人々を魅了している。
飴であれ、辛子であれ、徳利に何かが付いていたとしても、徳利とその中の味噌がある限り、日本は日本でいられる。究極の徳利からあふれ出す芳醇な味わいで、世界中を味噌味にしてしまうとき、徳利に付いた余分なものは洗い流されるだろう。
本シリーズエントリー記事一覧
村山談話を解析する その1 「田母神論文と村山談話」
村山談話を解析する その2 「過去の反省」
村山談話を解析する その3 「独善的なナショナリズム」
村山談話を解析する その4 「日本という縦糸」
村山談話を解析する その5 「現在の評価と未来の指針」
村山談話を解析する その6 「日本の器」
村山談話を解析する 最終回 「究極の徳利」

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