日本という縦糸(村山談話を解析する その4)


国家単位で、過去の悪事を解消するために良く使われる方法として、特定の誰かに責任を押し付けるというのがある。

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過去の政権が悪だったのだ。今の政権は彼らとは全く無関係であり、むしろ彼らを打倒した側なのだ。よって現政権は善であり、正当性があるのだ。そして、かの国民はその悪の政権に操られていた無辜の民であって、彼らに責任はない、として切り離してしまうやり方。どこかの国の得意技。

敗戦後の日本は、連合国によって、その役目をA級戦犯が負った、または負わされたことで、切り離すことになった。日本の意思とは関わり無く、世界的にはそうやることで落とし前をつけたように認識された。その意味では、天皇陛下に戦争責任が及ぶところを、ギリギリで回避したともいえる。

天皇という歴史の縦糸は切断されることなく、国柄も過去と完全分離しなかった。

世界的には、戦前の日本と戦後の日本は全く別の国家であって、そこに連続性はないという扱いをすることで、落し前をつけたことにした。事実、GHQによる焚書坑儒で多くの書籍が焚書され、「修身」の授業も止めさせられた。戦前の日本を抹消して"センゴニホン"に作り変えさせようとした。

そして、村山談話によって、戦前と戦後の日本が違う国であることを自ら宣言することになった。

だけど、天皇という頑丈かつ柔軟な縦糸は決して切れることがなく続いている。ゆえに日本人の意識の中で、日本は2000年以上の昔から「日本」であり続けている。

ここに世界と日本のギャップがある。

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日本が日本の伝統を意識し、戦前の日本にも良いところがあったという度に、世界は眉を顰める。全然作り変わっていないじゃないかと思う。彼らの神道に対する無理解も後押ししているのだけど、「ヤスクニ」には責任を押し付けた筈のA級戦犯とやらを祭っているそうじゃないか、日本は戦前から何も変わっていないんじゃないか、と疑われることになる。

そして最後に、「独善的なナショナリズムを排する」といっておきながら、平和の理念は兎も角「民主主義を推し進める」ことが独善ではないのかというパラドックス。

民主主義がいけないとは言わないけれど、未来永劫永遠不滅に正しいという保証があるわけじゃない。今のところ、民主主義のほうが望ましいとされているだけ。

遠い未来には、今の時代の民主主義国家制度など、愚かで遅れた国家体制であったといわれているかもしれない。

昨日のエントリーで、村山談話は、戦前の日本と戦後の日本は違う国なのだ、ということを対外的に認めた談話だといったけれど、更にいえば、村山談話は「戦勝国の論理に従います」という見解だとも言える。


本シリーズエントリー記事一覧
村山談話を解析する その1 「田母神論文と村山談話」
村山談話を解析する その2 「過去の反省」
村山談話を解析する その3 「独善的なナショナリズム」
村山談話を解析する その4 「日本という縦糸」
村山談話を解析する その5 「現在の評価と未来の指針」
村山談話を解析する その6 「日本の器」
村山談話を解析する 最終回 「究極の徳利」


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