9について検討を進める。これが一番重要な部分と思われる。
9.わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、平和の理念と民主主義とを押し広めていく。
9では、国として、"反省"をしたところ、"独善的なナショナリズム"がその原因であったから、独善的なナショナリズムは止めて、平和の理念と民主主義とを押し広めていくというのがその方策であるとしている。
これには重要な問題が含まれている。
まず、独善的なナショナリズムが国策を誤る原因なのであれば、二度とそういったナショナリズムを持ってはならないことになるという点。この場合、独善的ナショナリズムとは一体何を指しているのかが問題となる。
談話後の記者会見で、村山首相(当時)は「国策を誤り」の部分が、どの内閣のどの政策だったかというのは適切ではないと明言を避けたけれど、それが却って「独善的なナショナリズム」はいけないということを強調してしまうことになった。
ナショナリズムとは、ある国家や民族が自己の統一・発展および独立をめざす思想や運動のこと。
国家が自己の統一・発展および独立をめざすということを、国家意思レベルで発現すると、そのものずばり国益の追求になる。国益の追求はナショナリズムの発露の一部。世界各国はそれぞれのナショナリズムを発揮して、それぞれの国益を追求して、結果として妥協が生まれたり、外交的決着をしているもの。
国家を成立させるに当たって、バラバラな個々の地域共同体を束ねる為には、現政府の正当性を声高に宣伝したり、民族の歴史や神話を強調したり、外敵を作ったりしてなんとかして纏めようとする。これはナショナリズムそのもの。ただ、他国の価値観を認めない、あるいは認めるといった違いが独善的に見えたり見えなかったりするだけ。
だから、独善的という修飾語がつくにせよ、つかないにせよ、ナショナリズムを完全否定したところに国家が存立する余地は殆どない。それでは国の形が保てない。
ゆえに、「独善的なナショナリズムを排する」と言った場合、他国の価値観を認めず、自国の価値観を押し付けるという意味での「独善的な」ナショナリズムを排するという理解でいるならまだしも、世界からみてもユニークな価値観を持ち、その中に良いものもある独立した「ナショナリズム」をも排するという意味になってしまったら、その国を束ねるための根本の価値観を放棄することにもつながりかねない。
次に、「深い反省に立って独善的なナショナリズムを排し」に続いて、「平和の理念と民主主義」を推し進めるという文言が、そのまま、戦前の日本が、他国の価値観を認めないところの独善的なナショナリズム国家であって、かつ「平和の理念と民主主義」を持っていなかった、あるいは十分に理解していなかった国家であったと、自ら認めたと受け取られてしまう可能性がある点。
善意の第3国であったなら、この部分を、不幸にも、あの時はそうだったこともあったかもしれないが、戦後の日本は立派な平和国家なのだ、と善意の解釈をしてくれるかもしれない。だけど、悪意の国家からみれば、そらみたことか、やはり大日本帝国は悪の帝國だったのだ。ファシズム国家だったのだ、とプロパガンダの材料にされることは十分あり得る話。
日本の民主主義は、戦後から始まったわけじゃない。民主的考えの走りは、聖徳太子の十七条憲法からあったし、明治新政府の五カ条ののご誓文の第一条は、「広ク会議ヲ興(オコ)シ万機公論ニ決スベシ」。
そしてなにより、連合国が発した、ポツダム宣言の第10条は、「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙(しょうがい)ヲ除去スヘシ」となっていて、連合国自身も日本に「民主主義的傾向」があったことを認めている。
日本は曲りなりにも、戦前から民主国家だった。敗戦後その旧民主主義を修正されたと理解すべきなのだけれど、村山談話はこの理解を捻じ曲げてしまう危険を孕んでいる。
少なくとも、村山談話は、戦前の日本と戦後の日本は違う国なのだ、ということを対外的に認めた談話であると言える。
本シリーズエントリー記事一覧
村山談話を解析する その1 「田母神論文と村山談話」
村山談話を解析する その2 「過去の反省」
村山談話を解析する その3 「独善的なナショナリズム」
村山談話を解析する その4 「日本という縦糸」
村山談話を解析する その5 「現在の評価と未来の指針」
村山談話を解析する その6 「日本の器」
村山談話を解析する 最終回 「究極の徳利」

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