過去の反省についてカテゴライズした論旨は以下の4つ
3.私たちは過去のあやまちを繰り返さないため、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければならない。
6.わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れた。
7.植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた。
9.わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、平和の理念と民主主義とを押し広めていく。
このうち、3と9については、現在の評価および未来への方針も含まれているが、過去と一緒に検討する。
まず、3についてだけど、検討すべき点は2つある。ひとつは「戦争の悲惨さ」を語り伝えることで、本当に過去の過ちを繰り返さないことになるのかという観点。もうひとつは、「戦争の悲惨さ」とは具体的に何を指しているのかという点。
前者について、過去のあやまちとは、戦争に踏み込んだ結果として多くの犠牲者を出したことだとすると、その過ちを繰り返さない方策として考えられることは、大きくは以下の2つ。
A)何故国策を誤ったかの原因究明及び、その回避の可能性を検討し、後世への教訓とする。
B)戦争という行為そのものを忌避し、そういった概念を考えることすらしないよう教育する。
反省という言葉の定義を、WEB辞書で引くと「過去の自分の言動やありかたに間違いがなかったかどうかよく考えること。」となっている。
つまり、何某かの結果を引き起こした原因となる言動や行為について良く考えることが反省するということ。だから、この定義にしたがえば、過去の戦争に対して反省するというのは、「(A)何故国策を誤ったかの原因究明をして、また、その回避の可能性を検討する。」ことになる。「(B)戦争という概念から考えない」というのは、反省したことにはならない。
もしも、過去の反省というものを「戦争という概念から考えない」と捉えていたとしたら、戦争の悲惨さを語り伝えた先にあるものは、厭戦と絶対平和主義。脅されたら話し合うぞの世界。
だから後者の伝えるべき「戦争の悲惨さ」とは何を指すかということは、この反省の定義に従えば明らか。
何故国策を誤ったかの原因究明及び、その回避の可能性を検討することは「過去の過ちを繰り返さない」ための方策を考えることそのもの。若い世代に語り伝えていくべき「戦争の悲惨さ」とは、「国策を誤ることの悲惨さ、重大さ」を教育を通じて衆知徹底することに他ならない。
そうして始めて、国策は何によって、誰によって決められるべきかという問いに繋がり、日本は立憲君主制がいいのか、民主制がいいのかという命題から始まって、戦後民主国家が健全に機能するためにはどうあるべきか、という議論を醸成されるようになる。
6についても、3で検討したことがそのまま回答になる。「国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れた。」のは紛れもない事実。戦争に勝っていれば、国策が誤っていたことにはならなかったのだろうけれど、負けた以上、国策を誤ったということは認めないといけない。ただ、誤った、誤った、と言っているだけではただ後悔しているだけで、反省したことにはならない。だから、尚のこと、3で検討したように、なぜそうなったのか、どこで間違ったのか、二度と起こさないためにはどうすればいいかを国民全体としてよくよく議論して共通認識として持っていなくちゃいけない。
にもかかわらず、談話後の記者会見で、当時の村山首相は「国策を誤り」の部分がどの内閣のどの政策が誤ったかという認識があるかという質問に対して答えなかった。答えを避けたのか、答えられなかったのかは分からない。しかしそうした態度自身が過去に対する思考停止に繋がり、なんら教訓を見出せない危険を孕むことを忘れてはいけない。
7についても同様。国内では、日本が行ったことが果たして植民地支配だったのか、侵略だったのか、という議論があるけれど、結果として国策を誤ったのだから、国際的にみれば、植民地だろうが併合だろうが攻撃だろうが間違った行為とされてしまっているのが現実。
いくら当時の国際法に則った行為なのだといったところで、敗戦の憂き目にあえば全てパー。
本シリーズエントリー記事一覧
村山談話を解析する その1 「田母神論文と村山談話」
村山談話を解析する その2 「過去の反省」
村山談話を解析する その3 「独善的なナショナリズム」
村山談話を解析する その4 「日本という縦糸」
村山談話を解析する その5 「現在の評価と未来の指針」
村山談話を解析する その6 「日本の器」
村山談話を解析する 最終回 「究極の徳利」

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