式神と言霊(文章の格調について考える その13)



「清明どのの言うその呪(しゅ)とは、つまり何なのだ?」

「そうですねぇ。たとえば、この世で一番短い呪(しゅ)は、名ということになりましょうか。」

「名?清明とか博雅という名のことか。」

「はい。呪(しゅ)とは要するに、物や心を縛ること。」

「物や心を縛る・・」

「あなた様は、源博雅という名で縛られております。その名がなければ・・」

「私はいなくなってしまうということか?」

「いえ、名がなくても、あなた様がこの世からいなくなるということではありません。」

「なにを言っているのか分からぬ。」

映画『陰陽師』での、野村萬斎扮する安倍清明と伊藤英明扮する源博雅とのやりとり。

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陰陽師とは陰陽道によって占術・呪術・祭祀をつかさどる専門集団。平安時代に活躍したとされる。

言葉は「ことのは」とも言い、これはコトの葉っぱ、事の端、一部分。言葉だけでは「事」にはならない。言葉を「事」にする為には、文章にして、叙述しなくちゃならない。そうやって初めて言葉(ことのは)が「事」になる。

「事」とは、何がしかの事件であるとか、状態であるとか、何かの行為とその結果を示すもの。事には必ず何らかの「運動」が含まれている。

だから、言とは、言の葉に運動形態を与えたものと捉えることもできる。

陰陽師がよく行う術の一つに式神というものがある。陰陽師は、和紙で出来た式札に「呪(しゅ)」をかけ、式神を生んで自在に操る。

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式札といっても、もともとはただの和紙。それが陰陽師の「呪(しゅ)」によって、鳥や獣に姿を変える。使うだけなら、別に札のままで十分じゃないかと思うのだけど、実は、その何かの生物をわざわざ「模る(かたどる)」という行為によって、式札に運動形態を与えている。

これは言の葉という対象物を文章にすることで、運動形態を与えて「事(=言)」にするという行為と同じ。和紙の式札を鳥や獣等へ術師の意志で自在に姿を変えさせて使うことは、文章を綴ることと同じ。

和紙であれ、言葉であれ、対象に運動形態を与えるという行為は、それにいのちを与えて式神を生み出すということ。

日本語の文章は、最後に述語、往々にして動詞がくるけれど、この動詞という運動形態によって、言葉の式神が生み出されている。これが言霊の正体。

言霊は言の葉を、式神は和紙札(式札)を媒体として、運動形態が与えられ、命が生まれる。力が宿る。

だから、言の葉に与える運動形態の種類によって、生まれる"式神"は各々別の性質を帯びることになる。

映画「陰陽師Ⅱ」では、安倍清明が式札に色水で「舌」と書き、髑髏に食わせて喋らせるシーンがある。これも髑髏に「舌」という運動形態を与えることで、「喋る」という機能(性質)を与えている。



入沢康夫が示唆した、言葉と言葉の繋がりの中で、内的宇宙を探索する可能性とは、それぞれ別々の性質を持った言霊の式神が無秩序に並べられ、時には衝突して、思いもかけない世界を作り、見たこともないデータをキャッチするという可能性を示唆しているのかもしれない。

よく言葉の創化力とかいって、思ったとおり、話したとおりの事を実現する人がいるけれど、これは、その言霊が式神としての力を発揮した姿に過ぎない。

ここまでくると、その「言の葉」を「叙述」する人は、立派な言葉の陰陽師。詩人は、人の心を揺さぶるという性質を持った式神を次々と生み出す、言葉の陰陽師。

だから、言霊を識り、言霊の力を信じられる人はみな、式神使い、ある種の陰陽師でもあると言える。

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文章の格調について考える その1 「ウェブ2.0革命」
文章の格調について考える その2 「「知の性能」が目に見えてくる社会」
文章の格調について考える その3 「集合知という市場」
文章の格調について考える その4 「集合知の構造」
文章の格調について考える その5 「集合知の二つの性質」
文章の格調について考える その6 「日本語文章の論理」
文章の格調について考える その7 「意味の多様性」
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文章の格調について考える その11 「1/fゆらぎの文章」
文章の格調について考える その12 「詩人の言葉」
文章の格調について考える その13 「式神と言霊」
文章の格調について考える 最終回 「心を浄化する文章」