『先ごろある外人のパーティに私は行って、一人の小説家にこう尋ねたことがあります。あなた方は小説を書くときに、印刷効果の視覚的な効果というものを考えたことがありますか。彼ははっきり答えて、絶対にないと申しました。
われわれから見ると、Yという字が下に長くのびていたり、Lが上に長くのびていたり、英語の印刷上の効果の多少の起伏や凸凹があるというところが面白いと思われるのですが、外国人はついぞそういうものに注意を払ったことがないらしいのです。
そのかわりどんな散文であっても、外国の文章は耳からの効果がある程度大切にされなくてはなりません。もちろんそれが行進曲だの、ワルツだのというような派手な音楽的効果でなくても、無韻の韻といった音のないところから生ずる静かなリズム、人間の内的なリズムが感情にあらわれたようなリズムは、あくまでも重んじられなければなりません。しかし象形文字を持たない国民である彼らは、文章の視覚的効果をまったく考慮しないで綴ることができるのであります。
われわれにとっては、一度、象形文字を知ってしまった以上、文章において視覚的効果と聴覚的な効果とを同時に考えることは、ほとんど習性以上の本能となっております。』
三島由紀夫の「文章読本」からの抜粋だけど、三島由紀夫によれば、日本語の文章においては、その視覚的効果と聴覚的な効果を同時に考える本能があるという。
日本語の文章に視覚と聴覚の二つに訴える効果があるとすると、日本語の文章の味わいとは、視覚と聴覚それぞれの成分にその秘密が隠されているのではないかと推測することもできる。ひいてはそれが文章の格調に繋がる、とも。
通常、図像と音声を記号として処理する場合は、それぞれ別情報だから脳内で処理する部位もそれぞれ異なっている。
欧米語を話す人が失読症になると、まったく文字が読めなくなるけれど、日本語を話す人が失読症になると、「漢字」だけが読める人と、「かな」だけが読める人とにわかれるという。これは取りも直さず、図像処理と音声処理には、それぞれ脳の別の領域を使用していることを示している。
日本語の文章は象形文字をその淵源に持つ「漢字」と、表音文字である「かな」で構成されているから、図像記号と音声記号が混在した記号情報を持っている。
これらを苦もなく読んでいる日本人は、図像と音声を同時並行して脳内処理していることになる。
だから日本人にとって、文章に視覚効果と聴覚効果の二つを同時に考えるのは習性以上の本能であるという三島由紀夫の言葉はそのとおりだと思わせるものがある。
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