意味の多様性(文章の格調について考える その7)
機械翻訳の例でみたとおり、修飾語の掛かりの位置には注意すべきで、目的に合わせて単語の並びを入れ替えたり、句読点を間にいれるべきなのは当たり前になるのだろう。先ほどの原文で修飾語のかかりをそれぞれさらに明確にした文にして、再度翻訳を試みてみる。
原文:「僕は昨日美しい日本の山々を眺めてきた人に出会った。」
書換文
① :僕は、日本の美しい山々を、昨日眺めてきた人に出会った。
①’:僕は、美しい日本の、山々を昨日眺めてきた人に出会った。
①”:僕は、日本の山々を、昨日眺めてきた美しい人に出会った。
② :昨日、僕は日本の美しい山々を、眺めてきた人に、出会った。
②’:昨日、僕は美しい日本の、山々を眺めてきた人に出会った。
②”:昨日、僕は日本の山々を、眺めてきた美しい人に出会った。
これら書き換えた文をinfoseek翻訳にかけると、、
① :I met the person who looked at the Japanese beautiful mountains yesterday.
①’:I met the person who looked at the beautiful Japanese mountains yesterday.
①”:I met the beautiful person who looked at the Japanese mountains yesterday.
② :I met the person who looked at the Japanese beautiful mountains yesterday.
②’:I met the person who looked at the beautiful Japanese mountains yesterday.
②”:I met the beautiful person who looked at the Japanese mountains yesterday.
となった。
少し単語の並びや句読点を整理しただけで、①、①'、①”や②、②'、②”それぞれのニュアンスの差はきちんと翻訳されている。ただ、①系統と②系統、「昨日」が眺めてきた人にかかる場合と僕にかかる場合との見極めがうまくいかない。どちらも同じと解釈されてしまうようだ。他にもいろいろ試してみたのだけれど、結果は同じ。
今後、機械翻訳の精度が上がるにつれてこうした問題も解決してゆくのかもしれないけれど、いずれにせよ、文章表現はちょっとした書き方に気をつけるだけで、ぐっと分かり易さは増す。
要は文における「意味の多様性」が文の曖昧さに繋がるということ。これは修飾語のかかりだけでなくて、単語レベルでも同じ事がいえる。同じ単語でも人によって受けるイメージに差が起こることによるコンテクストのズレなどがそう。
そうしたズレを最小にして、正確にものを伝えようとすると、やっぱりその内容の背景や条件を修飾して、意味の限定をするか、伝えたい内容の概念を正確に定義した「造語」でも使って表現するしかない。でもそんな文章は往々にして分かりにくいものだし、文の味わいというものも消されてしまう。
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文章の格調について考える その8 「文章の効果とは何か」
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