指桑罵槐を読む(アジア覇権とエネルギー戦略について考える その2)
こうした中国のたびたびの挑発行為にどんな意図があるかについては様々な観測がなされている。
たとえば、そのまま素直に尖閣諸島を自国領土として、周辺海域のガス田を我が物とするための布石であるとか、日本に融和的政策をとる胡錦濤政権への人民開放軍の反発だ、とか。いやその逆で胡錦濤が人民開放軍の不満を逸らすためにあえてやらせたのだ、とか。
どちらにせよ、領海侵犯という行為が日中双方の関係にいい方向に作用することは考えられないから、意図はどうであれ、日中間を仲違いさせるという結果が得られることだけは確か。
今のように、中国が日本の技術や経済協力を欲しくて仕方がないときに、日中が仲違いして得する勢力なんて、そんなにない。しいていえば、政府内の反胡錦濤派、たとえば上海閥とかが、北京閥の追い落としを考えてなんてのは考えられる。
中国の行動原理の中に「指桑罵槐(しそうばかい)」というのがある。
「指桑罵槐(しそうばかい)」というのは、桑を指して槐(えんじゅ)を罵るという意味で、本当に非難・攻撃したい対象とは全く別のものを罵ることで、間接的に本当の相手にそれと分からせるというもの。これはかの兵法三十六計の中に、第二十六計としてしたためられている。
もし、政府内の反胡錦濤派が胡錦濤政権を揺さぶろうとしたら、胡錦濤が最も重要視しているものを罵り、追い落とすことができれば、指桑罵槐の計は成ったことになる。
日本を領海侵犯して、日中間の関係を悪化さえできればそれで十分ということになる。
今までの日本政府は、こうした中国内部の権力闘争を知った上で、あえてそれを不問にして、中国政府との関係を維持してきたように見える。たとえば、中曽根元首相は、1985年8月15日を最後に首相在任中の参拝を止めたけれど、その理由は中国共産党内の政争で胡耀邦総書記の進退に影響するのを避け、胡耀邦を守るためだったと述懐している。
その後、度々首相の靖国公式参拝が取り沙汰されたり、取りやめになったりしたけれど、小泉政権になって、ようやくそんなので取りやめるのは内政干渉である、という世論が出来上がってきた。中国は、殊更に靖国で声をあげることで却って日本世論を硬化させるのを知ってしまった。もはや靖国カードは放棄したようにさえ見える。
その分だけ、世論も変わってきたし、政治判断も変わってきたということなのだろう。
指桑罵槐(しそうばかい)―『この厄介な国、中国』を再読して― : 2004年04月10日:高塚年明(参議院第一特別調査室 次席調査員)
3月24日、沖縄県の尖閣諸島・魚釣島に中国人活動家7人が不法に上陸した。同日、沖縄県警は、上陸した7人を出入国管理法(不法入国)の疑いで現行犯逮捕し、26日、福岡入国管理局那覇支局は、この7人を中国へ強制送還した。当然の対応である。そもそも尖閣諸島は日本の領土だからである。その根拠については、沖縄が本土復帰をする昭和47年5月15日の約2カ月前の3月10日、福田赳夫外相(当時)が衆議院外務委員会で、次のように述べている。
「明治18年、時の県令(県知事)が実施調査を命じ、その結果を内務卿(内務大臣)山縣有明氏に報告し、その山縣内務卿が閣議に報告しております。そこで確認されたことは、無人島であり、当時の清国の支配の形跡は認められない、ということであります。そうした観念に基づき、明治28年1月の閣議で正式に尖閣列島はわが国の領土であることを確認し、標識を立てるということにしております。次いで、28年の日清戦争の結果である下関条約において、わが国は清国から台湾、澎湖島の割譲を受けましたが、尖閣列島は割譲された領域の中には入っておりません。それから平和条約が結ばれ、わが国は、台湾、澎湖島を放棄することになりましたが、放棄した領域の中に尖閣列島は入っておりません。逆にアメリカが施政権を行使する区域の中に編入されている状態で今日に至っておるわけであります。今度の沖縄返還協定において提供すべき(ものを示す)A表の中にはこの米軍基地のある尖閣列島も含まれております。ですから、どこから見ましてもわが国の領土であることに一点の疑いもない。」
今回の事件で、連動するかのように、北京の日本大使館前で日本の国旗を焼く野蛮な行為があった。毎度のことかと思いつつ、岡田英弘(東京外国語大学名誉教授)著『この厄介な国、中国』を再読した。同氏は中国の辛口批判で知られるが、その主張は中国を非難することではない。中国に対する誤ったイメージを持つ我々日本人に対し、次のような警鐘を鳴らしているのである。
「日本人の中には、中国に対する抜きがたい幻想が居座っている。それは、日本人と中国人は古くからの隣人であるという幻想であり、日中は理解し合えるといった間違った思いこみである。日本人は同文同種の民族として、漢文を読むことで、中国を知ったつもりになってきた。それは極めて危険なことであり、日本人が中国及び中国人を理解することに失敗してきた最大の原因である。中国人には、中国人独自の行動原理がある。そして、それらは日本人と極端に離れている。(中略)この幻想から自由にならない限り、日本人はこれから先も中国人と付き合っていくことは永遠にできないであろう。」
中国人の行動原理を表すものに「指桑罵槐(しそうばかい)(桑を指して槐(えんじゅ)を罵(ののし)る)」という諺がある。その意味するところは「本当の怒りの対象とは全く別なものを攻撃する」である。「歴史認識」「靖国」「教科書」問題には多分にその傾向があると言われる。その実は、中国国内の権力闘争なのである。感謝と謝罪を挨拶代わりとし、それが文化となっている日本人は良いカモなのである。これこそ、自国の文化で他国を推し量る奢りであり、陥穽であろう。その意味でも、小泉総理の言われた「冷静な対応」が必要なのである。
(toshiaki_takatsuka@sangiin-sk.go.jp)
*1949年静岡県生。1979年3月早稲田大学大学院経済学研究科博士課程前期修了。同年4月参議院事務局入局。予算委員会調査室、決算委員会調査室、外交防衛委員会調査室等を経て第一特別調査室勤務。
URL:http://www.policyspace.com/2004/04/post_276.php
中曽根首相公式参拝訴訟@Wiki
中曽根康弘が首相在任中の1985年8月15日に公式参拝したことに対する訴訟。中曽根康弘は首相在任中に10回にわたり参拝しているが、1985年8月14日に、正式な神式ではなく省略した拝礼によるものならば閣僚の公式参拝は政教分離には反しないとこれまでの政府統一見解を変更したこと[3]を受けて、1985年の参拝で閣僚を引き連れて玉串料を公費から支出する首相公式参拝に踏み切ったため、特に問題とされた。(これをきっかけに、信仰上の相違と靖国神社法案に反対する立場から「日本遺族会」に属していない、あるいは脱会していた遺族が「平和遺族会全国連絡会」を結成するに至った[3][6]。
九州靖国神社公式参拝違憲訴訟における1992年2月28日福岡高裁判決では、公式参拝の継続が靖国神社への援助、助長、促進となり違憲と判示[7]。関西靖国公式参拝訴訟における1992年7月30日大阪高等裁判所判決では、公式参拝は一般人に与える効果、影響、社会通念から考えると宗教的活動に該当し、違憲の疑いありと判示[8] 。いずれも確定判決となり、玉串料を公費から支出する首相公式参拝は憲法の政教分離原則に反する違憲が確定した。
中曽根は1985年8月15日を最後に首相在任中の参拝を止めたが、これは訴訟を理由とするものではなく、翌1986年の終戦記念日前日の8月14日の官房長官談話によれば、公式参拝が日本による戦争の惨禍を蒙った近隣諸国民の日本に対する不信を招くためとしている[9]。中曽根は後に、自身の靖国参拝により中国共産党内の政争で胡耀邦総書記の進退に影響が出そうだという示唆があり、「胡耀邦さんと私とは非常に仲が良かった。」、「それで胡耀邦さんを守らなければいけないと思った。」と述べている[10][11]。
URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E5%95%8F%E9%A1%8C
この記事へのコメント
日比野
中国については、かの国をひとつとしてみるか、春秋戦国のように複数の国々の群雄割拠の地帯だとしてみるかで対応が変わってくるのだと思います。そこに着目すれば、いろいろと仕掛けができるようにも思います。
美月
大陸の熾烈な権力闘争に巻き込まれたくない…というのがやはり本音ですが、領海侵犯などに憤って拳を振り回したりしているうちに、知らず知らずに、感情的な側面から巻き込まれてしまいそうなのが怖いですね。
尖閣諸島のトラブルすら、「彼ら」にとっては、日本を釣りあげておいて、アジア覇権確立の“ついで”に叩き潰すための戦略的道具なのかも知れない…などと想像してしまいました。
時は既にアジアの春秋戦国時代、のような気さえしてまいります(こちらがノンビリし過ぎなのかも…汗)。続きを楽しみにしております。