■ 考えること伝えること
今日は、過去エントリーの再掲です。
1.知性と五感
考えることと伝えることについて考えてみたい。
考えたことを誰かに伝えたりして交流することを、俗にコミュニケーションと呼ぶ。
コミュニケーションはラテン語の「communicatio」に由来していて「分かち合うこと」がその原義だと言う。
誰かとコミュニケーションするとき、何かの対象を分かち合うことが必要になるけれど、その前に、人は対象をどうやって認知しているかということについて整理してみる。
人間は外界とのインターフェースとして、いわゆる五感を持っている。視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五つ。
これら五感を通して、外界と接触している。
だから、何かの対象を人から人に伝えてコミュニケートするためには、その対象をこれら五感のどれかに置き換える必要がある。でないとその対象を発信も出来なければ、受信も出来ない。
何かを伝えたい人は、自分が伝えたいものを、目に見える形にしたり、音に変換したり、匂いや味や手触りに変換したりして、外部に発信してコミュニケートする。
自分の伝えたい何かって、そのときの自分の心のかたち。だから、その表現は知性の八つの種類のどれかによってなされていて、それをさらに自分自身の五感のどれかに変換して外部に送信する。
逆に、受け取る側は自分の五感で受信したものを、知性の八つの種類のどれかに変換して心のかたちとして受信する。
知性の八つの種類とそれらに対して主に使われる五感を対応させてみると、大体下記のような関係になると思う。
1.言語的知性 :視覚・聴覚
2.絵画的知性 :視覚・触覚・(味覚)・(嗅覚)
3.空間的知性 :視覚・触覚
4.論理数学的知性:視覚
5.音楽的知性 :聴覚
6.身体運動的知性:触覚・視覚
7.社会的知性 :五感全部
8.感情的知性 :五感全部
※身体の運動・表現行為は触覚として分類
※華道・料理といった表現は絵画的知性に分類
この中で社会的知性や感情的知性といった、社会生活を営みや人間関係を保つ為の知性には五感全部を使う。なぜかといえば、生命維持の為。平たく言えば身の危険を避けるため。
毒ガスとか毒のある食べ物なんかは見た目では分からないし、音もない。怪我をしても痛くともなんともなければ放置してしまう。その怪我が元で死に至ってもその時まで分からない。
それに対して、社会的知性や感情的知性以外の知性、いわゆる主に文化芸術活動において使用される知性は必ずしも五感全部を必要としていない。
もちろん、華道や料理のように、自分の芸術性を香りや料理で表現することもあるし、それらの受信には、嗅覚や味覚を使うことになるのけれど、大抵の文化芸術活動は、視覚と触覚、聴覚あたりが中心。
[Asagi's photo]より
2.指向性と置換性
文化芸術活動におけるコミュニケーションって、なにかの形ある作品や記号に置き換えたものを媒体として行われる。だから受け取る側は、ほとんどが視覚と聴覚でそれらを検知することになる。
それら五感で検知できる、形あるものの中で、最も汎用性の高いものが文字を主体とする「記号」。
特に不特定多数の人とコミュニケーションをとろうと思うと作品そのものより記号に変換した方がより多くの人に伝達できる。
なぜそんなに記号が使い勝手がいいかというと、記号は置換性と指向性が高いから。
芸術作品のような「形ある」ものは実際に現物を持ち運びしないと相手に見せたり聞かせたりできない。だれど記号や文字なんかは何にでも記録させられるし、持ち運びや伝達しやすい別の記号に変換してもOK。とても扱い易い。
たとえば、紙に記号や文字を沢山書いてなんらかの情報を記したとしても、紙なら折りたたんで小さくしてしまえる。また、電子データに変換・圧縮してCDROMかなんかに納めたりすれば、持ち運びも簡単。
文字・音声・画像データの他の記号への置き換えなんて、そこら中でやっている。テレビや電話などでは画像や音声といった、視覚・聴覚で検知できる情報を一旦、電気信号に置き換えて伝送して、また元に戻す処置をしている。糸電話ですら音声を糸の振動に変換して、相手先で逆変換してる。この記号の持つ他の媒体への置換の容易性が、使い勝手の良さを保証してる。
記号は揮発しない。
香りや味や音は空気を媒介にして伝わるから、そのままだと拡散して薄まってしまう。香りを遠くの人に送りたいと思っても、手元の香りは相手には届かない。香りをカン詰にして送るか、相手に来てもらうしかない。美味しい料理だって同じ。基本的に長距離伝送には向かない。
昔は音声だってそうだった。CDやテープの無い時代は、名曲を聴きたければ、直接演奏を聴くしかなかった。音が記号化できたのは最近の話。音をデジタル化して、記号化してようやく、電話やラジオ・テレビなどの媒体に乗せることができるようになった。
普通の社会生活と違って、文化芸術活動におけるコミュニケーションって、だいたいは五感の一部を使って行われている。限定されたインターフェースでの交流からはまだまだ抜け出せていない。
[Asagi's photo]より
3.文字記号
世界中や日本国内でもネットブログで様々な記事がアップされているけれど、その媒体はもちろん文字。文字記号。
文字は記号として伝達媒体として働くけれど、揮発しないし、他の記号にも容易に変換できるから、昔から情報伝達の主役だった。
文字は形あるものや、形のないものを文字「記号」に置き換えることで、コミュニケーション媒体の主役を担っていた。
だけど、最初に触れたように、コミュニケーションを行うには、心のかたちを五感で検知できるデータに変換して相手に届けて、その相手がまた五感で受信して心のかたちに逆変換して受け取るプロセスがある。間に文字記号の変換処理が入る。
たとえば、ある人が心に[りんご]を思い浮かべたとする。それを文字として記事に書いたとすると、心に思い浮かべた[りんご]は、言語的知性の働きで文字情報としての「リンゴ」に置換される。
文字情報の「リンゴ」は記事として送信され、その文字をみた人は文字情報としての「リンゴ」を視覚によって捉え、言語的知性の働きで文字情報の「リンゴ」を、その人のコンテクストに基づいた[りんご]として認識する。
双方の変換処理において、そのベースとなるのが、個人個人のコンテクスト。
「リンゴ」という文字情報を見て、赤い林檎を思い浮かべる人もいれば、青林檎を思い浮かべる人だっている。
発信する側が赤い林檎をイメージして「リンゴ」という文字を伝達したとしても、受け取った側のリンゴに関するコンテクストが「青りんご」しかなかったとしたら、当然「青りんご」として認知される。
リンゴという情報が、伝達において、「赤い」リンゴから「青い」リンゴに変容してる。
これでコミニュケーションが成立するかどうかは、文脈とか、話す内容による。
沢山ある果物の中のひとつとしての「リンゴ」であれば、「赤く」ても「青く」ても余り齟齬はないかもしれないけれど、どのリンゴが美味しいのかとかなんて話題であれば、赤リンゴや青リンゴ、はてはリンゴの品種まできちんと区別したほうがいい。
だから文字情報だけでのコミュニケーションにおいては、双方のコンテクストをデータベースにした、変換・逆変換のプロセスが入るから、それぞれのコンテクストにズレが生じないように、なるべく文章には気をつけるべき。
[Asagi's photo]より
4.日本語は論理的か
よく日本語は外国語と比べて論理的でないとか、いやそうでもないとかいった議論がある。
論理って、前提と結論とその間を結ぶ理由の塊のこと。その塊が連鎖したものが文章。
だから、前提と結論と理由をきちんと記述することさえできれば、それは論理的な言語ということになる。
その意味で最も厳密な言語はおそらく数学。
前提は何々と定義して、その前提を足したり引いたりして、ひとつの結論を導き出す。その論証過程は数式として残される。
これを言語に当てはめてみれば、個々の前提や結論を示す「項」にあたる部分が主語や目的語。「演算式」にあたるものが述語。「仮定条件」や「限定条件」を示すものが修飾語になるだろう。
だから論理的でない言語というものがあるとするのなら、それは、前提となる概念や結論をどう頑張っても記述できないとか、足したり引いたりする、いわば演算式にあたる概念を表す単語がない言語ということになる。
もし、主語や目的語、述語が存在しないとか、主語なら主語だけしかなくて、述語がない言語があったとしたら、その言語では論理は作れないことになる。だけど日本語には主語も述語もみんなきちんとあるし、抽象概念を表す名詞や動作・作用を表す動詞もちゃんとある。
だから、日本語に対して、論理的でないというときは、書いた文章の内容が論理的でないというだけであって、日本語自体が論理的でないというわけじゃない。
[Asagi's photo]より
5.日本語の表現
論理的でない文章ってなにかというと、数式におきかえて考えてみると、「項」に複数の意味があって、どの意味なのか特定できないとか、「項」と「項」を繋ぐ演算式が間違っていて、どう計算してもその答えにはならないとき。矛盾した文章。
前者は表現の曖昧さにつながり、後者は論理が飛躍しすぎていると言われる。
表現が曖昧になるというのは、項である主語や目的語になっている単語に複数の意味があって、文脈からどの意味で使っているのか特定できないとき。特定するためには修飾語で補って、前提条件や仮定条件、さらには限定条件をつけて特定しないといけない。
日本語の特徴として、よく主語が省略されるけれど、それは主語で示される概念の「項」が抜けていることを必ずしも意味しない。項が抜けたら思考の演算式は綴れない。
日本語における主語って場や状況で規定される。文脈とか、語尾変化だとか、敬語表現だとか。
日本語には男言葉や女言葉があって、全く主語を抜かしても誰が喋っているのか大よそ分かるようになっている。昔ならさらに武家言葉とか町人言葉というのもあった。
さらに語尾変化、いわゆる動詞で、相手に問いかけているのか、自分が話しているのか区別したり、敬語表現で彼我の関係も表現できる。
日本語はよく、動詞の中に主語が含まれているとか、動く虫の視点だ、とか言われるけれど、言葉の論理演算式を綴っていく視点でみると、多分それぞれの思考の演算式を書くページを分けているのだと思う。
たとえば人物Aの言葉を1ページ目に書いたら、人物Bの言葉は2ページ目に書くという具合に、暗黙の了解を作って、文章を綴る。だからわざわざ主語をつける必要がない。その人物専用の個人ページを用意する。
同じページに複数の人物の会話を載せると、いちいち誰々といった主語をつけないと分からないのだけど、日本語、特に日本語での会話表現だと、最初の状況、場面設定さえきっちり設定できれば、あとは主語無しでも誰が話したのか表現できる。なぜかといえば、主語以外の文章に人物属性や互いの関係を書き込めるから。
6.会話におけるキャラ設定
日本語では、人物属性は、男言葉、女言葉に代表されるように文章表現で使い分けできるし、互いの関係性も敬語表現で分かる。
さらには、しばしば省略される主語でさえも、使おうとすれば、同じ人称、特に一人称の表現が多様だから、それと語尾表現を少し使い分けるだけで、キャラ設定すらできてしまう。
たとえば、ある人物の発言した意見にその他の人物が一様に賛同を示す場面を想定してみる。
「○○は△△だ」
1.「わたしもそうおもいます」
2.「おれもそうおもうぜ」
3.「あたしもそうおもーう」
4.「ぼくもそうおもう」
5.「あたいもそうおもうな」
6.「わてもそうおもうで」
7.「わたくしもそうおもいますことよ」
8.「わしもそうおもう」
9.「わいもそうおもうでごわす」
10.「おらもそうおもうだ」
これらを英語で書くと、全部I think so.になってしまう。実際の翻訳では、同じ意味で別の表現の単語に置き換えるのだけれど、日本語のような人称や語尾表現のバラエティさはない。
上記の例では、日本語で10通りの表現が可能。しかも、誰が男性女性で、どんな性格か、場合によっては、その人物の体つきまでイメージできてしまう。
だから、たとえば、ライトノベルかなんかで、まるまる台詞だけのページがあっても、人物設定と敬語表現だけで区別できてしまう。
なぜここまでキャラ設定できてしまうかというと、こういう言葉を使うのはこういう人だとか、こういう言葉を使うのはこういう時なのだ、というコンテクストが日本人の間で共通認識としてあるから。
上記の例でいくと、1,3,5,7は女性、2,4,6,8,9は男性だと分かる。しかも、1,2は主役キャラ、3はちょっと幼い感じ、4はクールでかっこいい系のキャラか少年だろうし、5は姉御肌のキャラで、6はちょいと軽いが抜け目のないタイプに感じるだろう。7はお嬢様系で、8は年配・じいさん。9は九州男児系のキャラで、10は東北の人。
こういった性格分けは多分にマンガやアニメの影響が大きいと思うのだけど、日本では暗黙の了解としてすっかり通用している。
日本語では、言葉の表現だけで人物キャラの設定が出来てしまう。だから、落語という芸が成立する。
もちろん噺家は、言葉表現だけではなくて、仕草や声色といった芸の力で人物描写や情景描写をしてゆくのだけれど、日本語のもつ同一の意味であっても多様なキャラを表現できる力が大きな要素を占めているといっていい。もし仕草だけで表現できるというのなら、それはもはや落語ではなくてパントマイム。ラジオでも落語が成立するのは、日本語表現の豊かさそのものを証明してる。
こういった、言葉のちょっとしたニュアンスだとか、動作に込められた暗黙の意味なんかは、文化・伝統として日本社会に流れていて、生きている間に自然と身につけられるもの。
ただ、それが逆にこういう言葉を使うときはこういう立ち振る舞いをしなければならない、という無言の圧力になることもある。
今ではそれほどでもなくなったけれど、最近までは、女性が男言葉を使ったりすると違和感を持たれていた。女らしい言葉遣いをしなさい、と。 いうなればコンテクストの呪縛。
半ば冗談だけれど、今はいなくなって廃れてしまった武家言葉を政治家・官僚が使うようになれば、彼らの意識も変わるのかもしれない。
[Asagi's photo]より
7.概念の伝達
日本語は場や状況設定を行う、すなわち思考の演算式をどのページに書くかといった初期設定を決めてしまえば、言葉をどんどん省略しても会話が成立する。
前章の例でいえば、10人おのおののキャラの思考の演算式は10枚の紙にそれぞれ独立して書き込まれる。
読み手は主語がなくても、文章表現で何ページの演算式かを読み取って、主語を補う。結構複雑で柔軟な思考プロセス。
肝心な場や状況設定を文章で行うときは、しっかりと描写して書き込んでいかないといけないのだけれど、いくら書き込んだところで、文字情報はあくまで記号。
だから、それを受け取った側は自分のコンテクストを元にして逆変換を行うから、発信側が元々持っていたイメージが変容してしまう危険から逃れることはできない。
そういった変容を最小限にするのにテレビをはじめとする映像メディアがある。映像情報は発信側のイメージをそのまま伝える。記号としての要素がないから受け手側も視覚と聴覚でとらえた映像情報を記号から逆変換する必要がない。
映像情報では受け手のコンテクストに依存した変容がおこらない。だから不特定多数の相手に、ほとんど同じイメージ情報を同時にかつ変容させずに伝えることができる。これが映像メディアが持つ印象操作の力が強い理由。
そんな映像情報にも弱点はある。香りと味と手触りと抽象概念がそれ。これらはまだダイレクトに伝送できない。
料理番組をみても、その料理の香りはしないし、味もわからない。湯気が立っているのをみて、温かそうだとはわかっても、どれくらい熱いのかまではわからない。
映像は形やイメージを伝えることができるけれど、逆にいえば、世の中に存在する形あるものしか映像化できない。抽象概念は目に見える形がないからお手上げ。
だから、嗅覚、触覚と味覚情報や、抽象概念をその場にいない人に伝えようとしたら、やはり一旦記号に変換してから伝えるしかない。
[Asagi's photo]より
8.ソムリエの表現能力
「子供の頃、近所のおばあさんの家に入り浸ってたことがあるんだけど、その時にごちそうになった、干し柿を思い出した。」
人気漫画「神の雫」で、フランスワインのジゴンダスを口にしたときのセリフ。
ソムリエは、嗅覚や味覚情報を的確な文字情報に変換できる名人。本人しか体験できないワインの味と香りをさまざまな表現を駆使して記号化する。
香りや味を表現するために、他の皆が知っているものに置き換えて表現する。飲んだ本人しか分からない感覚を、他の多くの人が持っているであろうコンテクストに置換することで色や味や香りを伝える。
色なら、黄金色や琥珀色。香りであれば、グレープフルーツやシナモンの香りとか。
それでも、シナモンの香りと表現したワインの香りは、本物のシナモンの香りと100%イコールという訳じゃない。
だけど、実際に味わったことのない人に伝えようと思うと、多少情報が劣化したとしても多くの人が知っている記号に置き換えたほうが伝わり易いのは明らか。
同じように、文章でも、少数の人しか理解できない難解な概念を多くの人に伝えようとしたら、多くの人が共通して持っているであろう別の記号に置き換えなくちゃならない。
だけど、何かの記号に置き換たとしても、そのコンテクストを持っていない人には、その表現では伝わらない。ベルガモットの匂いをかいだことのない人にベルガモットの香りといってもわからない。そんなときは、まったく別の表現を使って伝えようとするもの。
だから同じ対象をあらゆる角度からみて、言葉を重ねて表現することは、より多くの人に伝えるためには大切なこと。もちろん誰でも知っていて端的に全てを表現できる言葉があればいいけれど、そんな都合の良い言葉なんてそうそうあるもんじゃない。自分で作らない限り。
ソムリエの表現能力って、自分の五感で捉えたものを、一般大衆が共通して持っているコンテクストに巧みに変換できる能力といっていい。似たような能力は文学者や小説家にもある。
9.哲学の文章
文章もジャンルによっては、難解なものがある。たとえば哲学書なんかの類(たぐい)。
哲学がわかりにくいのは、難解な表現や、そもそも意味の分からない単語が沢山あるから。
哲学って抽象概念をよく扱う。目にみえなくて、形もないから五感で感知できないものがほとんど。直覚的に捉えられない。
哲学者は、思索の果てに、新しい概念を発見する。それは、数式のように思考のプロセスをたどっていけるもの。あるいは、電子回路のように思考を回路化したもの。時としてその回路規模はとてつもなく巨大になったりもする。
だけど、やっとたどり着いたその巨大な概念を、そのままの長大な思考の演算式のままで扱うのは大変。だから、使いやすいように自分でその概念を一言で表す言葉を造語して、コンパクトな単語レベルの記号に置き換える。
だけど、そうやって造語した単語は、生まれたばかりのマイナーなもの。他の多くの人が知っているわけじゃない。その単語の中にはぎっしりと思考の論理回路が詰まっているのだけど、造語された単語を始めてみた人には、その中の回路は読めない。
また哲学って結構厳密。客観性が求められるから、思考の演算式そのものにも拘る。式の「項」にあたる単語そのものに複数の意味があるなんてとんでもない。だから単語に修飾語をいっぱいくっつけて、限定条件を付加していって「項」をただひとつの意味にまで絞り込んでゆく。
だから哲学の文章には、マイナーなコンテクストを要求するような特定概念を示す造語が沢山あって、さらに修飾語がいっぱいくっついたような構成になってしまう。読みやすいわけがない。
[Asagi's photo]より
10.たとえ話の利点と欠点
ネットの世界では、表現者の自由度が高いために、自然と類は友を呼ぶようになる。同じ趣味思考の人たちだけで、コミュニケーションが盛んになって、「ネット魚群」を形成するようになる。
文章は誰を対象にしているかで、その内容や表現は当然異なってくる。
既存メディアとの対抗メディアとして考えるのか。同好の士を求めるための書き込みなのか。それとも自分用のメモなのか。
誰を対象としているかというのは表現においては大切なこと。
何かを伝えるにしても、哲学のような抽象的概念を伝えるのは難しい。そんなとき威力を発揮するのがたとえ話。たとえ話はイメージを想起させる。
たとえ話で扱われる事象は、動植物や自然とか人間社会の営みとか、誰でも知っている事柄。
たとえ話って、伝えたい概念を広く一般に知られているコンテクストに置換すること。だから高度な抽象概念も分かりやすく伝えられる利点がある。
抽象概念をたとえ話に置換する場合に大切なことは、本当に伝えたいことは何かということを規定すること。哲学的抽象概念を、たとえ話にいつも100%置換できるとは限らない。
要するにこういうことなんだ、というくらい単純化して本質をつかみださないとうまく例えることはできない。たとえ話に限定条件なんて無いのが普通。
哲学的概念を数式のように厳密に表現しようとすればするほど、思考の演算式を厳密に追いかけていって、ひとつひとつの項の定義と条件を明確にする修飾語をつけなくちゃいけない。
なになにが、これこれで、こうした場合に、云々かんぬん・・と思考の演算式をそのまま例えられても、たとえ話なのか何の話なのかさっぱり分からない。
だから、たとえ話を使うときには、その哲学概念の一般的部分をつかみだして、それを中心に据えて例えることになる。その代わり概念の減衰、変容は避けられなくなる。
11.菩提と救済
「上求菩提 下化衆生(じょうぐぼだい げけしゅじょう)」という言葉がある。
上に向かっては精進を積んで悟りを求め、下に向かっては衆生を救済せよという仏教用語。仏道修行者の心得。
考えることと、伝えることの関係の鍵はここにある。
考えること、上に向かって悟りを求める気持ちが強くなれば、思考はどんどん厳密になって、その表現も「正確さ・適切さ」を大切にしてゆくようになる。
逆に伝えること、より多くの人に伝えたい、救済したいという気持ちが強くなれば、思考概念の多少の減衰・変容には目をつぶってでも分かりやすさを求めるようになる。
わかりやすさを求めるあまり、「正確さ・適切さ」をおろそかにするのは哲学に対する裏切りだ、と考える人は、上に向かって悟りを求める気持ちが強いのだろうし、思想は相手に伝わらないと意味がないんだ、と思う人は、多くの人に物事の本質を伝える気持ちが強いのだろう。
だから、哲学的に思索を極めたい人は、思考に厳密さを求めて、思想を後世に残すし、現世に影響を与えて世の中を良くしていきたい人は、表現にわかりやすさを求めて、現世に広く伝えてゆく。
だけど、たとえ厳密さを求めて、しっかりとした思想を残したとしても、その表現があまりにも難解であれば、後世の人が理解できないあまりに、いろんな解釈を行って、その思想が曲がってゆくことがある。
その一方で、わかり易さを求めて、思想を簡素化・単純化しすぎてしまうと、時代が下っていくにしたがって、思想の中身が失われ、後世の人々を救う力は失われてゆく。
哲学ってもともとは、この世のみならずあの世も含んだありとあらゆる事象がなんであって、何のために存在するのか、という世界の本質を知の働きを通して探究する学問だった。
ルネッサンスの画家ラフェエロによる有名な『アテナイの学堂』の中央にはプラトンとアリストテレスがいるけれど、プラトンは指を天に向けているのに対し、アリストテレスは手のひらで地を示している。哲学は天も地も探究の対象だった。
本来の哲学は、天も地も、この世もあの世も知ることで、認識を高め、なぜ生きるのか、どう生きるべきなのか、と心にダイレクトに反映する学問であったはず。
とすると、その探究姿勢はやはり「上求菩提 下化衆生」であるべきなのだと思う。
難しいことだけれど、思想を練るにあたっては、どこまでも厳密に考え、表現するときにはどこまでも分かりやすくする。それが思想表現における「上求菩提 下化衆生」。
考えることと伝えることは表裏一体であって、思索において厳密、表現においてわかりやすさを求めるべき。それは自分の認識を限りなく悟りに近づけ、他の多くの人によき影響を与える救済の道。
考えることと伝えることとが、「上求菩提 下化衆生」によって結びついたとき、思想は最大の力を発揮する。
この記事へのコメント
日比野
>実際の会話だと、・・・ いろいろとあると思いますよ。
そういう突っ込み、絶対あると思っていました(笑)
おっしゃるとおり、実際の会話ではいろいろな表現を使っていると思いますし、発音などでもクイーンズイングリッシュ、コックニーなど訛りで出身地などがわかると聞きますね。ただ、日本語の一人称表現の多様さのように、その人のキャラまで設定できてしまうところまでは、なかなかいかないように思っているのですが、どうでしょうか?(識者にお伺いしたいところです)
mayo5
直訳するとそうかもしれませんが、実際の会話だと、
Yes./(That's) right./(It) Sounds correct./(I) agree (with you)./.. いろいろとあると思いますよ。
ただ、英語の主語の貧弱さは、日本人からするとつまらないですね。本当はもう少しあるのでしょうけれど。
私たちは英語をあまりに知らなさ過ぎる。ただ、どうも男言葉、女言葉は庶民のレベルでは無さそうに思える。それでも、言い回しとかであるのだろうと思いますけれど、私のレベルでは分かりません。
愚樵
少し前から本館とそれから離れの方もお邪魔させてもらっています。本記事は「お気に入り編」を見たときに入っていたので憶えがあったのですが、そのときは頭の方をだけを拝見しただけでした。今回、再掲載ということで最後まで読ませていただきましたが、少し驚きました。「考えること伝えること」が「上求菩提 下化衆生」にまで繋がっていくとは。
しかし「天使のコミュニケーション」を思い起こせば、「上求菩提 下化衆生」にまでいたるのも頷けるものがあります。私はあの記事での「天使のコミュニケーション」を覚者の融通無碍の説法だと思ったのですが、考えること伝えることが悟りへの道であるとするなら、融通無碍にいたるのに「上求菩提 下化衆生」を通過しなければならないのも理です。この記事には、ちょっと大げさかもしれませんが、その理の一端が現れているように感じました。
また折に触れお邪魔したいと思います。よろしくお願いします。
バーバリーブラックレーベル