村山談話を歴代内閣が踏襲せざるを得ない理由の一端が明らかになってきた。
今月(2月号)の「正論」での安部元総理のインタビューで、現職当時、村山談話を破棄して、安倍談話を模索する動きがあったものの、日中共同宣言に村山談話を尊守するという文言があるために、日本が一方的に反古にすることは国際審議上出来なかった旨の発言を掲載している。
これでは、村山談話を易々と破棄はできない。
以前のエントリーで村山談話を解析したところ、村山談話の内容は戦前と戦後の日本は違う国なのだ、という宣言だといったけれど、村山談話は使い方次第でまだどうにかなる余地はある。
つまり、国際正義に則ったところの村山談話をいわば、表向きの看板としてつかって、中身についてはそれに縛られないというやり方。
米スタンフォード大学の高校歴史教科書比較研究プロジェクトの報告では、日本の歴史教科書は単なる歴史記述に留まっていて、特に愛国教育はしていないとされている。
であれば、日本の歴史教科書から如何なる結論を導き出すかは教える側の姿勢と教わる側の受取り方で決まる。
歴史記述を元に、ひたすら戦争はいけないのだ、戦前の日本はいけなかったのだ、とだけ覚えさせる授業もできれば、逆にどうすれば戦争を回避できたのか、またどうすれば勝つことができたのかを考えさせる授業をすることだってできる。
たとえば、日本悪玉論者の教師と田母神氏が、同じ歴史教科書・同じ指導要領で歴史を教えたとしても、おそらく教わる生徒の認識はそれぞれ全く違ったものになるだろう。
だから、村山談話云々がいい悪いではなくて、日本国民自身が過去について何を教わって、どう考えたのかという根源の問題こそ問うべき。「反省」というものを、失敗の原因究明と対策を立てるためのものとして考えるか、失敗した事実を振り返ることすらいけないものだとするかの違い。
『文芸春秋』新年号で、石破農水相の論文「田母神前空幕長を殉教者にするな」にて、負けることが分かっていた戦争を始めた指導者の責任は厳しく問われてしかるべきだ、という事と、開戦に至る歴史や戦後の経緯について、学校できちんと教えていないことは極めて重大な問題だと考えている、と指摘している。
世界からみれば、村山談話は内容を見る限りケチを付けられるようなシロモノじゃない。
表向きは村山談話を踏襲しますといって、海外からの非難をかわしておいて、国内の教育ではしっかりと様々な角度からの検証を進めてゆく。
村山談話は日本のイージス(盾)として使えばいい。

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