
「ことごとく腰がぬけはて、震えて返事も出来ず、下戸に酒を強いたるが如し」
大久保彦左衛門『三河物語』より。
戦国時代には、圧倒的少数で篭城戦をして攻城側を撃退した例がいくつかある。中でも有名なのは、なんといっても上田城合戦だろう。
天正十三年(1585)八月二日、徳川家康は鳥居元忠を総大将として平岩親吉、大久保忠世らにおよそ7千から1万の兵を率いさせ 真田領に侵攻させた。
この報せを聞いた、真田領当主の真田昌幸は、築城の途中だった、上田城での籠城を敢行する。その兵わずか2千。
真田昌幸は自ら率いる4~500余を上田城本丸に、城の横曲輪(よこぐるわ)を初め諸所にも兵を配置、城の東南の神川(かんがわ)に200の前衛部隊、伊勢山(戸石城)には嫡男である真田信之の800余を配置してこれを迎え撃った。
真田昌幸は、負けたフリをしてわざと徳川の三河兵を城内深く誘い込んでから弓・鉄砲で反撃、城内の500の兵と横曲輪(よこぐるわ)に集結した兵を押し出させ、 上田城の町家には折からの強風に乗せて火を放った。
山野に伏兵していた武装農民はこの火を合図にいっせいに徳川勢に打ちかかり、真田信之の指揮する800は戸石城より討って出て徳川勢の退路を遮断。徳川勢は大混乱に陥った。
撤退する徳川勢は、戸石城から討って出ていた真田信之の突撃により陣を崩され、 四散した兵は神川で溺死するという被害を出した。
この戦いでの徳川方の死者は1300余、一方の真田方の死者は40余とされている。圧倒的勝利といっていい。
麻生政権は、今こそ、この真田昌幸の上田城合戦に学ぶべきだろう。
上田城合戦で特筆すべきは、守り手の真田軍が、農民・商人など民衆を篭城戦に参加させていたということ。真田昌幸は、周辺の村々の住民を呼び寄せ、惣構えの内部に屋敷地を割り振って、彼らを移住させていた。人工河川の矢出沢川で囲まれた丸の内の中に、農民をも住まわせ、彼らをして篭城戦に参加させたのが勝利の鍵であったという説がある。
これを今の麻生政権に応用すればいい。つまり政治を政治家だけにさせるのではなく、一般国民にも政治参加させるということ。
本シリーズエントリー記事一覧
麻生政権の支持率回復の可能性について その1 「麻生篭城」
麻生政権の支持率回復の可能性について その2 「包囲する勢力」
麻生政権の支持率回復の可能性について その3 「上田城合戦」
麻生政権の支持率回復の可能性について 最終回 「真田忍者とアルファブロガー」
麻生政権の支持率回復の可能性について 補追1 「ブロガー同行取材の意味」
麻生政権の支持率回復の可能性について 補追2 「同行ブロガーの計」
麻生政権の支持率回復の可能性について 補追3 「直接民主制の可能性」

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