価値の経験と発見(価値と貨幣について考える その3)
価値を価値として、規定するものは何かと言うと、経験と発見がそれ。
長い年月をかけての経験は、価値を価値足らしめる時と条件を決めてきた。河豚を食べるときでも慎重に毒のある部分を取り除いたりできるのも経験のお陰、あの堅い竹であっても筍の時であれば美味しく食べられるというのもそういった経験があってこそ。
大切な経験は、人から人へ、子から孫へ知識として伝えられ、やがて文化や伝統にまでなってゆく。
だから、経験の差によって文化や伝統は異なったものになるし、当然価値の差は生まれてくる。
日本人にとって魚は食べる対象だけれど、牧畜民族のように魚を常食しない人達にとっては魚は「食べる」という目的に沿った価値としてみれば低くなる。カナダの人達は鮭を取ってもイクラは食べる習慣がない。取れたイクラは犬の餌にするという。実に勿体無い。
また、価値には発見されて始めて価値を帯びる場合がある。たとえば、昔は、壊血病や脚気なんかは単なる栄養不足か病気だとされていたけれど、ビタミンが発見されるとそれをふんだんに含んだ食物、柑橘系果物だとか野菜だとかは、壊血病予防という価値を帯びるようになった。
今だと、いろんな健康食品や栄養サプリメントがそうだろう。亜鉛なんて金属を普通は食べようとは思わないけれど、亜鉛は新陳代謝に必要な反応に関係する多種類の酵素をつくる成分で、皮膚や粘膜の健康維持を助ける栄養素だと発見されると、亜鉛は必要な栄養だから不足しないようにしっかり取りましょうと言って、亜鉛を多く含んだ食品を勧めたり、サプリメントを作ったりする。
それまではこれこれにはあれを食べると良い、とかいった経験によるしかなかったものが、より選択的に有効成分を抽出することができるようになった。
価値は発見によっても価値を帯びる。発見によって帯びる価値は、経験による価値と比べて、より具体的・選択的な性質を帯びやすい。特に科学的分析による発見はその性質上、純粋に原因となる成分を特定するために、価値の対象を分類・選択してしまう。
味覚障害には牡蠣が良いという経験による価値の規定は、「牡蠣」全部にその価値を与えるけれど、味覚障害には亜鉛が有効なのだ、という発見による価値の規定は、牡蠣の中の「亜鉛」だけに価値を与えるという違いがある。
亜鉛に味覚障害を改善する価値があるとまで特定できれば、牡蠣のほかに亜鉛を含む食べ物であれば同様の効果が見込めるから、亜鉛を含む食品であれば、同じ価値が与えられる。選択の幅が広がる。そういう強みがある。
発見による価値の規定は、同一の価値を帯びた別の物を探索・供給できるという意味においてとても有効なもの。だけど、あまりこれに頼りすぎると、逆に経験でしか分かっていない価値を軽視してしまうことがある。なぜだか分からないけれど効果がある、というものに対して懐疑的になってしまうきらいがある。科学的根拠がないと信用できないという縛りを作ることになる。
臨床試験で効果が確認された医薬品には、政府の認可が下りるけれど、民間療法は相手にされない。たとえ効き目があると分かっていても。
本シリーズエントリー記事一覧
価値と貨幣について考える その1 「価値を規定するもの」
価値と貨幣について考える その2 「価値が内包する時間」
価値と貨幣について考える その3 「価値の発見と経験」
価値と貨幣について考える その4 「価値と値段」
価値と貨幣について考える その5 「時間を凍らせる」
価値と貨幣について考える その6 「富の蓄積」
価値と貨幣について考える その7 「市場が飽和するとき」
価値と貨幣について考える その8 「規制と流行」
価値と貨幣について考える その9 「貨幣の持つ2つの機能」
価値と貨幣について考える その10 「金利の特権」
価値と貨幣について考える その11 「ゲゼルマネー」
価値と貨幣について考える その12 「地域通貨とスイカ」
価値と貨幣について考える 最終回 「価値の本質」
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