■ 商品価値について

 
今日は、諸事情により過去エントリーの再掲とさせていただきます。

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1.商品価値の世界

経済学における商品価値については、様々な説や理論があるけれど、古典経済学から近代経済学においては大きく二つの説とその変遷がある。

古典経済学における「労働価値説」と、近代経済学における「効用価値説」がそれ。

労働価値説とは、商品の価値をは一定の商品のうちに含まれている社会的必要労働の量によって規定されるというもの。イギリスのペティに始まり、アダム・スミス、リカードにより体系づけられ、マルクスによって集大成された。

商品価値を生む源泉が、商品そのものが持つ価値ではなくて、その物を生産し、運搬してきた労働に対して対価を支払っているという考え。

それに対して、効用価値説とは、商品の価値は、効用(満足度)の大きさで決まるとする理論。 ある製品を消費したとき、それによって得られる効用(満足度)が価値なのだとする考え。

同じ商品を使ったときでも人によって満足度は当然違うから、その商品の値段に対して高いと思う人もいれば安いと思う人もいる。個人の主観に相当な部分委ねられているから、主観価値説とも呼ばれてる。

商品には当然値段があるけれど、値段と価値とは必ずしもイコールじゃない。

商品を生産するために労働を全く介さないことは殆ど有り得ないから、生産者からみて、その商品の値段は生産するのに必要なコスト以上でないと儲けが出ない。

原材料費+製造費用+輸送費用<売価  ・・・①


という関係式が成り立つのが普通。

だから、労働価値説って生産者側からみるととても理に適った理論にみえる。ただし、これはあくまで商品の値段の話であって、価値そのものを意味しているわけじゃない。

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2.本当は恐ろしい消費者

次に商品を使う側、消費者側から考えてみる。消費者側から見ると効用価値説のほうがしっくりくる。

消費者にとって、なにかの商品を欲しがって買う理由は当然メリットがあるから。たとえば、パンのメリット(効用)ってなにかといえば、パンを食べることで満腹になるという効用とパンを味わったという満足感や幸福感。

パンの価値=満腹という効用+幸福感(満腹による満足感+美味しさによる幸福感)・・・②


という具合。

当然人によって、1個のパンで満腹になる度合いは違うし、舌の肥え方で味にたいする満足感も異なるもの。普通の人とギャル曽根とでは、1個のパンでの満腹感は違うだろうし、普通の人と魯山人とではパンの味に対する幸福感は違うだろう。

価値を値段に置き換えてみると、

パンの値段<満腹という効用+満足感(満腹による満足感+美味しさによる幸福感)・・・③


が成立するとき、購買者はその商品に対して「お買い得」感を覚え、得したと思う。


商品を作る側にとっては、労働価値説に依拠した生産コスト以上で商品を売りたいし、買う人にとっては、効用価値説に依拠した、お買い得な商品が欲しい。

だから、生産コストより売値が高く、しかもその売値でお買い得感があるという商品が理想となる。

つまり、

原材料費+製造費用+輸送費用<売価<商品の効用+満足感(製品使用に伴う幸福感)・・・④


の式が成り立つ商品においてようやく、作った側も買った側もハッピーなWIN-WINの関係になる。

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3.利益を上げるには

生産コストより売値が高く、しかもその売値でお買い得感があるという商品において、生産者が一番儲かるのは生産コストが限りなく安く、お客さんの満足感が極大になるとき。

そんな商品は超お買い得、オススメ製品として人気殺到することは間違いないから、単品での利益があることは勿論のこと、ロングセラー商品として長く利益に貢献する。

企業からすれば、そんな商品を開発したいし、売り出したい。そのためには原材料の仕入れ、企画、設計、生産に頭を痛めることになる。再びパンを例にとると、

・少しでも安い小麦を探して仕入れたり、人件費を圧縮したりして生産コストを抑える。
 
・少しでも美味しくしようと研究、工夫することで、消費者のお買い得感を高める。


というような生産活動を行うようになる。

たとえば、手作りパン屋さんがあったとして、パン作り職人さんの腕が上がれば、単位時間で作れるパンの個数が増えるから生産単価は安くなるし、美味しくなることによって、食べた人の幸福感も上がる。

また、パンを遠くの釜で焼いて持ってくるよりも、自分の店で焼けば、輸送費用はほとんど0になるから、焼きたてを店頭に並べられるという付加価値をさらに上乗せできる。

生産コストを安くすることと、満足度を上げることが同時にできればベストだけれど、自由主義社会市場においては当然他店との競争があるから、より市場に適った商品でないと売れなくなる。

社会がバブルの時は、お客さんはお金を持っている。売価は多少上げても大丈夫。財布の紐は緩い。だから他店との競争に勝とうと思ったら、お客さんの満足感をより高い商品を作ろうとする。パンだったら、原材料から良質のものを使ったり、少しでも味を良くしようとしてみたり。

だけど、デフレのときはその反対。財布の紐は固くしまってる。本当に必要なものしかみんな買わなくなってくるから、生産者は生産コストをどんどん切り詰めて、少しでも売価を安くしてなんとか買ってもらおうと努力する。

回りの社会環境や景気の良し悪しによって、生産コストを抑えて売価を安くするほうにウェートをかけるか、質や機能を高めて満足度を大きくするほうにウェートをかけるかといった商品戦略はあってしかるべきもの。そうしないとあっという間に負け組になってしまう。

また、そこで生き残りたいからといって必要以上にコスト削減をして質を落としたり、逆に価値があるかのように虚偽の表記をしたりして儲けを企む輩も中には出てくるのだけれど、そんなのは資本主義社会においては信用を無くしてしまって、やがて淘汰されてゆく。

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4.「創意工夫力」を鍛える

「ここはひとつ、相手の気持ちになって話を聞こう。」
「誰かに愛を届けたら、誰かから愛が届くんだなぁ。」

2007年7月4日にスペシャルドラマとして放映された、新幹線ガールの中のひとこま。

これは、東海道新幹線の300人近いパーサー(販売員)のなかでトップの成績を上げた23歳の徳渕真理子さんの著書『新幹線ガール』を元にドラマ化したもの。

徳渕さんは、2005年度下半期に平均の3倍という飛び抜けた販売力を発揮したのだけれど、そこにはそれを可能とした実に様々な創意工夫があった。

新幹線は、乗降駅や曜日、時間帯によって異なる乗客の客層が異なる。そこで、団体や家族客が多いと土産物、また、ビジネス様だとアルコール飲料を切らさないようにしたという。

また徳渕さんは接客において以下のことを行ったそうだ。

・アイコンタクトを絶対する

・もう一品お勧めする

・お客様が出されている「買いますよ」のサインを見逃さない
 (チャリチャリと小銭を探す音がしたら、そのお客様を探す。)

・乗客の背面からワゴン販売を行う場合は、正面から進む場合よりもゆっくり進む。
 (背面からだと、パーサーが通っていることに乗客が気づきにくいから。)

・お客様の立場で考える。
 (お客様のニーズを読む)


労働時間だけでみれば、徳渕さんも他の人も同じ。だけど売り上げが3倍も違う。だから単なる労働時間だけで誰でも同じ価値を持つ、同じコストになるということにはならない。

そうした事実を分かりやすくしたものの一例が、保険勧誘員とかセールスマンでよく採用されている歩合制。売った額に応じて給料が決まるのだから、人それぞれので労働価値が違んだということを目に見える形にして表している。

労働価値というものは、決して労働時間だけではなくて、その時間にどれだけの工夫や智慧が籠められているかや、商品の信頼性に繋がる確かな仕事をしているか、といった質も大きく関わっている。

だから生産される過程と出来上がった商品に対するお客さんの満足感は連動してる。生産コストが低くて、満足度が高い商品が売れるのは当たり前。そこにあるのは、創意工夫。

徳渕さんの例で明らかなように、同じ時間で作ったものであっても、その時間内に工夫や智慧が介在したとたんに、商品価値はうんと変わるし、それに付随して売り上げも伸びてゆく。

労働価値は、労働そのものとそれに加えた創意工夫によっていくらでも上がるということ。

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5.「時間の密度」というライフハック

同じ一日8時間の労働であるのに仕事の出来る人と出来ない人が分かれるのは、その中身が違う、出来る人の仕事は質が高いのだ、という理屈は当然成り立つ。

この労働の中身、質という観点から、労働時間というものを考えてみる。

先の新幹線ガールを例にとって、新幹線のパーサーの仕事を各アクションに分解してみると、

・商品を乗せたワゴンを押して、車両内を行き来する
・買いたいお客さんに商品を渡す。
・商品代金を受け取り、確認して、お釣りを渡す。


この3つのアクションを一人のお客さんに対して繰り返してる。

一時間あたりで30人に商品が売れたとするとき、このパーサーは8時間で

8時間×30人の客×3アクション=720アクション


をすることになる。

ところが、新幹線ガールの徳渕さんのアクションはといえば、先の3つのアクションに更にプラスして、

・乗降駅や曜日、時間帯によって異なる客層に合わせた販売品目を揃える
・アイコンタクトを絶対する
・もう一品お勧めする
・お客様が出されている「買いますよ」のサインを見逃さない
・乗客の背面からワゴン販売を行う場合は、正面から進む場合よりもゆっくり進む
・お客様の立場で考える。

の6アクションを行っているから合計して9アクションしている。だから徳渕さんは、一時間あたりで30人に商品が売れたとしても8時間では、

8時間×30人の客×9アクション=2160アクション

していることになる。

だけど労働時間でみればどちらも8時間、でもアクション数は徳渕さんが3倍多い。だから時間に密度があるとするならば、徳渕さんは他のパーサーの3倍の時間密度を持っていることになる。

時間に密度があるという観点からみると、労働というものを二つの軸で考えなくちゃいけない。

ひとつは時計の針で測れるところの客観的時間、もうひとつは個々人が感じることができる主観的時間。前者は生産性、製造数に影響し、後者は製品の質に寄与する。

だから商品価値には、時計の針で測ることのできる労働時間というコストと製造者の主観的智慧が介在する時間という二層構造の時間を内包してる。

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6.時の刻みと所有権

生産者にとって商品を作るコストは低ければ低いほどいい。その分儲けが大きくなるから。そのためには単位時間の生産性をあげて合理化を図らなくちゃいけない。一番簡単なのは人件費を削っていくことだけど、それだけでは限界がある。

個々の工程を見て、自動化・機械化できそうなところをどんどん自動化してゆくことで、人手に頼るよりも正確で疲れなくて、24時間稼動できる生産体制を整えてみたり、需要予測をキチンとやって生産調整して在庫を極力減らしてみたりする。

そういった目的合理化が成り立つのは、時計の針で測ることのできる客観的時間の刻みがほぼ一定であることと、近代資本主義の前提になっている所有権の絶対性が保証されているから。

一分であるとか一時間であるとか時の刻みが客観的にほぼ一定であることは重要なこと。時計の針で測ることのできる時間は、地球の自転周期であるとか、太陽の周りを一回りする公転周期であるとか、なにかの周期的な運動を基準に決められている。

人々の生活する社会において、客観的に同一な周期があるということは、実は人類の進歩発展を支えている。もし、一日24時間というものが、日ごとに違う世界があったとしたらどうだろうか。

今日は一日24時間だけど、明日は10時間で、明後日は40時間あったりしたら。今日が何時間あるかなんて、その日になって見ないと分からないとしたら。そんな世界では生産計画はおろか納期も約束できなければ、普段の生活すら成り立たない。待ち合わせも出来なければ、いつ食事していいのかも分からない。

何日後という概念、暦が世界共通で成り立つから、売買契約も成立する。一定の時の刻みによって、計画どおりに何かを作ることができて、それを礎にして新たな文明文化も作っていける。

また、所有権の絶対性も保障されていないと、生産計画は立てられない。いくら莫大な費用を投じて生産設備をそろえたとしても、役人の胸先三寸で没収されてしまうような社会があったとしたら、いついつまでにこれくらいまで生産しようなんて悠長なことは言ってられない。没収される前に作りだめでもしておいて在庫を持っておくか、作ったそばからどんどん売り払って投資費用を回収して十分儲けを出して、とっととトンズラするしかない。

役人の不正や賄賂が蔓延って、法治ではなく、人治でいくらでも法を捻じ曲げてしまうような社会では、権力を持たない存在は自衛手段として現在ただ今、その場で兎に角儲けを出して逃げ出すようになるし、またそうした風潮を許容するようになってしまう。

目的合理性と持続的発展は、時の刻みが一定ということと、所有権の絶対性があって始めて成り立つもの。

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7.価値を発揮する条件

商品の目的や性能は価値と必ずしもイコールじゃない。

商品が持つ目的が消費者の求めるものでなければ売れないし、操作が難しすぎたり、規制があったりして、本来製品が持っている性能の半分しか発揮できなければ、実質性能は半分しかない。

子供に原子物理学の専門書を持っていっても売れるわけがない。時速300Km出せるスーパーカーでも一般公道では危なくて100Kmも出せないだろうし、よしんば高速道路でも、ドライバーが怖くて200Kmまでしかアクセルを踏み込めなかったとしたら、本来の性能と比較して実質性能はうんと落ちる。

商品の機能・性能が価値のすべてであるとは限らない。どんなに労働力を投入したとしても、どんなに原材料に贅の限りを尽くしたとしても、消費者にとって役に立つものでない限り、価値は低い。

消費者にとってはその商品の消費に伴う効用がどれだけあるかで価値が測られるもの。

消費者にとって役に立つというのは何かというと、消費者の期待に適っているとか、便利であるということ。

たとえば、夜でも仕事がしたいとか、夜も余暇として楽しみたいという消費者の期待に対して、「電球」という商品がどういう効用を果たしているかを考えてみる。

暗闇を明るく照らすという電球の機能は、夜なのにあたかも昼のような空間を現出させるもの。これはこれで消費者の期待に十分応えている。

だけど、もうひとつ便利さという観点がある。たとえば、その電球を光らせるのに特殊な電源が必要でコンセントに指して使えるものではなかったり、スイッチを入れても明かりが点くまで10時間かかってしまうようなものであったとしたら、まず売れない。便利さからは程遠い。

だからなにかの商品を使うことによる満足感というものは、その効果を発揮する条件によって左右される。

いくら電球が夜を明るくしたといっても、明るくできるのは、電球のフィラメントが切れるまでの間。エジソンはすぐ切れてしまうフィラメントをどうすれば長持ちさせるかで、さんざん苦労したという。

また、電球を点けるのに、コンセントに指して、ボタンひとつで直ぐ点灯するものと、特殊電源を用意して、スイッチを入れて10時間も待たないといけないものとでは、満足度の度合は全然違ってくる。後者の電球を使うくらいなら、薪を集めて、木と木を擦り合わせて火を起こしたほうがまだ早い。

だから、消費者の満足感は、「商品の効用が持続する時間」と便利さが作り出すところの「節約できた時間」の二つの要素から成り立っている。

前者は製品寿命。後者は商品の時間創造効果となって現れる。

製品寿命は不良品でない限り、誰が使っても大体同じ時間だけれど、節約されて浮いた時間は、消費者本人がその時間をどう使うかによって、その効用は大きく異なってくる。

価値という側面からみれば、製品寿命は減価償却される価値になるし、創造された時間は運用可能な価値になる。

だから商品価値は、効用が持続する客観的な時間と、それらを使用することで得られる主観的運用可能な時間の二種類の時間の和で測られる。

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8.満足とは何か

「大慈与一切衆生楽、大悲抜一切衆生苦」

150-250年ころ活躍した、八宗の祖師龍樹(りゅうじゅ)の著わした『大智度論』(だいちどろん)の中の一節。

仏教では、仏や菩薩は衆生の苦しみを抜いて楽を与える、抜苦与楽(ばっくよらく)を行うという。これが仏の慈悲のあらわれであるとされている。

消費者の欲求って、言い換えれば快楽の追及だから、商品を使用することによって得られる満足感を考えるということは、この「抜苦与楽」とは何かを考えるということとほとんど同じ。

抜くべき「苦」とは何かといえば、仏教では有名な四苦八苦が説かれている。

「生」   ・・生まれる苦しみ
「老」   ・・老いの苦しみ
「病」   ・・病にかかる苦しみ
「死」   ・・死ぬ苦しみ
「愛別離苦」・・愛するものと別れる苦しみ
「怨憎会苦」・・怨み憎む者と会う苦しみ
「求不得苦」・・求めても得られない苦しみ
「五陰盛苦」・・肉体煩悩にまつわる苦しみ

の八つの苦しみ。

これらを解消、緩和する商品は「苦」を抜くという効用があるということ。

また「楽」を与えるとは、ひらたくいえば、何かをするときの手助けをするということ。荷物を背負ってどこかへ行く時に手伝ってあげるとか、代りに買い物に行ってあげるとか。

電話一本で荷物と取りに来てくれたり、注文した品を自宅に届けてくれるような宅配便サービスなんかは「楽」を与える商品の一例。

商品ってなにかの役に立って、便利だから使われるもの。

役に立つ時間とは、消費者の欲求に対して、効果を発揮している時間だし、便利さは時間を節約して、自由にできる時間を創造している。

商品は消費者の役に立つことで「苦」を抜いているし、便利であるということで時間を節約して「楽」を与えている。

だから逆にいえば、どんなに役に立つ商品であったとしても、それが生産される過程や使用される過程において、別の「苦」を作り出すものであっては意味がない。

いくら生産コストを抑えたいからといって、公害を垂れ流して周囲を汚染しながら作ったり、安くてお買い得のように見えてその実、有毒物質が混ざっていて健康被害を与えるような商品があったとしたら、その商品価値は大きく毀損する。

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9.苦の属性

四苦八苦の内容を良く見てみると、肉体煩悩に属した「苦」と精神的欲求に属した「苦」があることに気づく。

「生」「老」「病」「死」と「五陰盛苦」は肉体に起因した苦しみだし、「愛別離苦」、「怨憎会苦」、「求不得苦」は精神的苦痛。

健康で若い人にとっては、生老病死は遠い話で「苦」とはほとんど認識しなくて、もっぱら「五陰盛苦」に苦しむものだし、逆に血圧が気になるような年になると「五陰盛苦」は薄くなって、生老病死が身近な「苦」として迫ってくる。

若い人は普通金がないものだから、いつも「求不得苦」を感じている反面、社会的責任がまだそれほど重くないから、比較的自由に好きな人と会えるし、嫌いな人には合わないよと言っていられる。いきおい「愛別離苦」と「怨憎会苦」はあまり感じない。

逆に社会的責任を負う年配になってくると、金はあるから「求不得苦」はあまり感じないけれど、仕事柄厭な人でも会わないといけないし、長年連れ添った伴侶に先立たれることもある。「怨憎会苦」と「愛別離苦」は切実な苦しみ。

要はその人の立場や状況に応じて「苦」の種類のウェートが変わってくるということ。それはある意味当然のことであって、実際のマーケティングでも客層を分析してそれぞれに合わせた商品を売っているし、特定のターゲットを狙った商品を開発したりしている。

同じようなことは、社会や国の状況や発展段階の違いでも当然起こっている。

日本のように比較的、四苦八苦が解消・軽減された天国のような国では、四苦八苦を緩和する商品の価値は相対的に低くなる。

肉体に属した「苦」の軽減は、ほとんど社会インフラとして整備されて広く普及しているから、安価で容易に誰でもその恩恵にあずかることができる。あまりにも当たり前になっているから、その有難さを意識することもない。それこそ水とか空気のような扱い。

だけどそういった部分は、きちんと維持できていないとあっという間に天国から転落してゆく要因でもある。

天国のような国では、肉体的生存が容易だから、肉体に属した苦を感じる機会は少ないけれど、たとえば、紛争地帯であるとか、飢餓地帯であるようなところでは、生老病死の四苦がそこら中に転がってる。そこの住民にとっては今日を生き抜くことが全て。そんな人に高級車のセールスをかけても売れるわけがない。水や食べ物のほうが全然価値がある。

国の発展段階によって、価値あるものは当然変わる。それは「苦」の種類とそのウェートづけが異なるから。

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10.智慧と慈悲による価値の拡大再生産

商品を消費するとき、価値をただ使うだけであれば、その商品が普及するに従って、やがて限界効用が訪れる。

そうなったら、泉から水が湧き出るように、常に新しい価値を作り続けられなければ、社会に供給される商品価値は増えなくなって、ただの生産コスト勝負になってくる。

使った水が下水処理されて河に流されて、蒸発し雲となり、雨を降らしてまた生活用水となる循環があるように、商品も単に消費するだけではなくて、次の新しい価値を生むような消費をされるとき、価値は運用・循環して、価値の拡大再生産が始まってゆく。

ここで先にあげた、生産コストと満足感の不等式を振り返ってみる。

原材料費+製造費用+輸送費用<売価<商品の効用+満足感(製品使用に伴う幸福感)・・・④


左辺が生産コストで、右辺が満足感。左辺は労働価値に依拠し、右辺は効用価値が支配する。

そのどちらにも客観的時間と主観的時間の二層の時間が存在してる。

左辺は目的合理性を保証するところの客観的時間と時間密度を含んだ生産者の主観的時間があるし、右辺は、商品の効用が持続する時間と便利さが作り出す節約された時間を持っている。

目的合理性を保証したり、商品の効用が持続する客観的時間は、誰にでも平等で変更できないものだけど、時間密度を含んだ生産者の主観的時間と便利さが作り出す節約された時間は、人によっていくらでも中身を充実させることができる。

つまり同じ商品であったとしても、その中に内包する主観的時間に何がこめられているかで、価値は大きく変わるし、そこから与えられたものを如何に使うかによって、価値の運用・拡大の程度が決まる。

時間の二層性を見抜き、他者を決して害することのない「智慧」を商品に練りこんだとき、その商品価値は消費者の苦を抜き、楽を与える「慈悲」になって現れる。

消費者はそのいただいた「慈悲」に対する報恩としての「智慧」を自分の仕事に表していくことで、価値は循環し、価値の拡大再生産が始まる。

価値ある商品とは「智慧と慈悲」が織り込まれた商品なのだ。

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