上求菩提の先にあるもの(文化の普及について 最終回)
色々な国々で、その国独自の文化や伝統があるけれど、各々を文化の性能の3つの軸で比較すると、その深さも、広さも、賞味期限もその国ごとに全部違う。
だから、お互いの国の文化をそのままぶつけあったところで、表面的に触れるだけでは、深い相互理解にまで至る事は難しい。
そこを理解してゆく助けになるのは、他者への尊重。その場で善悪をつけてただ一つに断じないこと。
そして、その文化の深奥に潜む光を見つめ続け探究すること。でなければ、その文化の本当の価値は中々分からない。
そうした本来の精神を求める気持ち「上求菩提」を失うと、文化は易きに流れ、やがて衰退・散逸してゆく。そして、その精神を掘り起こして今に伝える「下化衆生」もまたされなくなってゆく。
時の政権が、自らに都合が悪いからといって、国民(くにたみ)の菩提心を否定するところには「上求菩提」は存在できない。
「上求菩提」の究極の先にあるものは、人類の叡智であり、希望の光であり、宇宙を貫く永遠の法則。
釈迦の説いた法も、自然法も、共通しているのは普遍で不変な法則であること。政権が何であろうが、天子がだれであろうが、そして、人類が地球に存在してもしなくても、なお存在するもの。
繁体字だの、簡体字だの、人が治める人の世は人の都合によって揺らぐけれど、「上求菩提」が求める究極の姿は揺らがない。それは永遠の法則だから。
今の日本は経済的繁栄を享受して、日本の文化も世界中に発信され始めている。世界がグローバル化して、狭くなっているからこそ、もう一度、自身の文化に対して、その本来の精神を「上求菩提」によって探究すべきとき。
そうして掴みだした永遠の価値を世界中に「下化衆生」するとき、日本は世界の光となる。
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