文化の性能(文化の普及について その10)


文化が高いとか低いとかは良く言われることだけれど、単純な高低だけでは文化の価値や程度を推し量る尺度としては不十分。何故かというと高低の方向性が明確ではないから。

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人はともすれば、自分自身の価値観を基準にしてあれは良いとか、これは程度が低いとか言ってしまいがちなものなのだけれど、当の相手から見れば、自分だって程度が低いと見られているかもしれない。

以前「知の性能」のエントリーで、知の性能を測る尺度として、深さ・広さ・賞味期限の3つがあるといったけれど、同じく文化についてもこの3つの尺度で考えてみるといろいろなことが見えてくる。

文化の深さとは、その文化の歴史そのもの。文化遺産であったり、その道を歩んできた人達の足跡や研究、そし研鑽の集大成。学んでも学んでも尽きることのない文化の厚み。

文化の広さとは、影響力と言い替えてもいいけれど、遠くの国の人や、価値観の違う人であっても、その文化を受け入れさせてしまうだけの対象の広さ。その文化に人類共通の普遍的価値が宿れば宿るほど、より多くの人々に影響を与える。

そして、文化の賞味期限。その文化が時代と共に変化する社会や価値観に何処まで耐えうるものか、その長さ。その文化が不変の価値を持てば持つほど、賞味期限は長くなる。

これらの総体がその社会や国が持つ文化の性能を決める。

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こうした文化の性能を極めようとする力が「上求菩提」。

そして、その奥深い文化を噛み砕いて、いろんな人に伝えて普及させてゆく力が「下化衆生」。

文化の性能が高いレベルにあり、かつその文化が広く一般に普及している国に長く住んでいる人は、知らず知らずに高い文化レベルを享受しているから、その高いレベルが当たり前になっている。

畢竟、その文化においては、たとえ、それを極めようとする気持ちがなかったとしても、外国の人達と比べると圧倒的に「上求菩提」のポジションに居る。高性能の文化に普段から接しているのだから当たり前。

そのアドバンテージは、その恩恵に与ったことのない国の人と会った時にはっきりわかることになる。こちらが当たり前と思っていたことが全然そうでないのだと気づかされるから。

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