素読と訓点(文化の普及について その8)

 
漢字にルビを振ったり、歴史的仮名遣いに現代仮名遣いのルビを振る手法を応用すれば、文法構造さえ同じであれば、極端な話、古文であっても現代語のように読むことが可能になる。

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たとえば、古文の本文に現代文の口語訳をルビとして振ってやれば、書き言葉には手を加えることなく、話し言葉を媒介にして、その内容を理解することができる。

もっと極端なことを言えば、外国語であっても、母国語のルビを振ることでいくらでも読めることになる。

ただし、このルビを振って読ませるやり方には前提がある。それは、文法構造が近似していないとルビを振るのが難しくなること。特に語順が違うと、単語単位でルビを振っても読むほうは語順が入れ替わっているので、そのまま読めないし、文章単位でルビを振って読めるようにしたとしても、今度は単語本来の意味と読みの意味が対応しなくなってしまうから具合が悪い。

それでも日本は、漢文と日本語の間の語順の違いを解消するために、漢文を読み下すためのレ点や返り点などを開発して、日本語の語順で読めるように工夫を施した。

もっとも、訓点を付けて漢文を読み下すのは、初学者のための補助として作られた面も大きく、その意味では漢字にルビを振るのと発想的には変わらない。

江戸時代から明治期の寺子屋では漢文を訓点を一切付けない、所謂白文を素読させていたところも多かったという。

漢文を白文で素読するといっても、大陸の発音ではなく、日本語の発音ではあったのだけれど、白文の素読は、今の英語教育でいえば、英語を原文のままで音読させることと殆ど同じだから、原文を読んでかつその精神を汲み取ろうとする「上求菩提」の精神を持ちつつ、訓点をつけて、読みやすいようにするという「下化衆生」の工夫も凝らしていたということになる。


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今に残る優れた漢文や漢籍の多くは、宋・元時代に発行されたものだけれど、当の中国で散逸したにも関わらず、日本に伝わった原本がそのまま残っているものも多い。

たとえば、佐伯藩8代藩主の毛利高標(1755~1801)が創設した有名な佐伯文庫などは、当時最大8万冊の蔵書があったとされ、四書・五経・中国・オランダの歴史書・生物学・医学書などその種類も多く、中でも漢籍においては、中国の宋・元・明版などの古い版があって、今でもその一部が現存している。

そうして輸入した大陸文化を「上求菩提 下化衆生」を行いながら国内に普及させ、時代が移り変わっても、それを捨て去り、否定することのない日本文化の懐は時代が下れば下る程、どんどん厚みを増し、豊かなものになってゆく。

当時の大陸は進んだ文化を持っていたといっても、それは"子"と呼ばれる、いわゆる教養人の間で共有されていたもの。それらは一般庶民に普及している訳ではなかったし、易姓革命で天子が交代すれば、その優れた文献すらも、天子の意向に合わなければ、否定され消し去られてしまう運命にあった。

だから、そうした当時の大陸文化の優れた思想や精神、文化を輸入して既存文化とも共存させて、しかもそれらを広く一般国民にまで普及させている日本は、彼らの文化の継承者だと言う資格は十分にある。

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画像漢文の素読と英語 2009-02-10 23:32:56 | Weblog

 江戸時代の教育法に漢文の素読というのがあり、これが有効だったという説もありますが、非効率だったという説もあります。
 実際は縦書きですが、図では便宜上横書にしてあります。
 一番上の文は漢字だけでできているので、本来なら「シンフザイエン シジフケン、、シイシュウシンザイセイキシン」のようにひだいから順に音読すべきなのでしょうが、これを「心ここに在らざれば、、」というふうに日本語に訳して読むのが素読です。
 「心ここに在らざれば、視れども見えず、、」と漢字かな混じり文で書かれているものを読むのであればまだ分かりやすいのですが、文字通りの読み方をしないのですから意味も取りにくくなります。
 語順が違うのですから、文字を順に見て行っては読めないので、先生は棒で心→焉→在→不というように日本語読みに合わせて漢字を指示したりしたようです。
 読むときに目をあちこちに行ったりきたりさせるという、アクロバティックな読み方をさせるので、とても覚えにくかったようです。
 漢文と日本語の訳文を対にして暗記させようとするのですから、かなり強引な教育で記憶効率が悪かったのでしょう。

 覚えにくいのでそれこそ何べんも音読して、読み方を覚えるという教育法だったのですが、「読書百遍意自ずから通ず」などという言葉が出来たように、意味が分からないまま繰り返して読ませたようです。
 日本は寺子屋などで識字率が高かったといわれますが、これは漢字かな混じり文のことで、漢文を読めるのはごくわずかだったようですから、素読というのはあまり有効な教育法だったとはいえません。

 漢字文を文字の並びどおりの順序で音読するのを直読といいますが、これは般若心経にある「色即是空 空即是色」を「シキソクゼクウ クウソクゼシキ」と読むように、経文の読み方が代表的なものです。
 この場合は順番に読むので音読はしやすいのですが、意味は素読の場合よりも分かりにくく、聞いただけの場合はサッパリ分からないでしょう。
 「門前の小僧習わぬ経を読む」というのは、耳の良い小僧ならお経を聞いているうちに、音としては暗記してしまうということで、意味がわかるようになるということではありません。
 お経は一般人には呪文のようなもので、聞いていてもまるで意味が分からないので、何かありがたそうな感じがするということに過ぎません。
 日本人にとっては漢字かな混じり文だけが身についたもので、漢文の素読や直読はごく一部の人にとっては意味があっても、一般人に対する教育的な価値はぎもんです。

 下の例は英語の場合ですが、漢文の素読のように英文を見ながら翻訳しようとすれば、視線を前後に動かして読まなければなりません。
 さすがに英語の場合は漢文の素読のようなものは出来ませんでしたが、素読式に視線を前後させながら意味を解釈するというやり方はまだ残っています。
 受験のための勉強方法として残ってはいるのですが、このやり方に止まっていては実用的な読み書きの段階にはなかなか到達しません。
 漢文の素読というのは言ってみれば、漢文の和訳法で定型化していたので便利だったのですが、わざわざ和訳法を覚える必要がない一般人に、英語の素読方式は不要だったのです。

URL:http://blog.goo.ne.jp/urataqw/e/39478124080f9d061ba2e01984fd4050



画像佐伯文庫とは・・・・

佐伯文庫は豊後の国佐伯藩第8代藩主、毛利高標の創設に依る藩の文庫である。毛利候2万石の居城は、現在の大分県佐伯市の市街地の西北に当たる城山にあって「鶴谷城」と称していた。

 その鶴屋城三の丸に程近い大手門の傍に、安永6年藩校として毛利高標は「四教堂」を創立、それから4年後の天明元年(1781)に、いままでに蒐めた蔵書の整理保管と、藩校教育資料の充実並びに領内・豊後地方の文運興隆を目的に、文治政策の中心として、三の丸城内に「佐伯文庫」を創設し、書物奉行を任命している。

文庫の創設者毛利高標は当時の数多い諸大名の中で、池田定常・市橋長昭と共に特に学者三大名といわれた程の学識高い好学の藩主で、書籍をこよなく愛蔵し、読書を心から楽しんだ人物で、八万余巻の収書が高標の一代にして行われ、三棟の書庫には内外の貴重な図書がいっぱいに収蔵され、しかも其の蔵書は経・史・子・集はいうまでもなく、ト占・農・医と広く各部類にわたり、漢籍においては、中国の宋・元・明版などの古い版も多く、更には洋書も相当収蔵されていたことは、現在大分県立大分図書館に特別貴重書として保管されている五部十二冊の洋書に「佐伯文庫」の印記が見られることからも証明される。なお子類の道蔵経(四千四百六帖)の如きは当時本邦にただ一部しか渡来していなかったという稀覯本であったが、実は其の一部がこの佐伯文庫に収蔵されていたのである。

 わずか二万石の小禄大名、しかも僻地の佐伯藩、その毛利候が設けた佐伯文庫の収蔵書が、御譲本を基盤とした御三家の一つ、水戸の彰考館や、大藩加賀百万石前田候の尊経閣文庫の擁書と比較しても、八万巻の蔵書量の質的内容等勝るとも決して劣らなかったことが、当時の学識ある教養人を大いに驚嘆羨望させたようであるが、現在の我々も亦佐伯文庫を調べて見るにつれ、毛利高標がこの文庫に寄せた並々ならぬ熱意と執念めくもの心から魅かれると共に、候が一般教養に加え書誌学に対する知識の甚だ豊富深博であったことに驚かされるのである。

「佐伯文庫の研究」梅木幸吉著より

URL:http://watanabe.town-web.net/sikoudou/saikibunko/saikibunko.htm

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