国語国字論争(文化の普及について その4)

 
『一國の文化の發達は、必ずその國語に依らねばなりませぬ。さもないと、長年の敎育を受けられない多數の者は、たゞ外國語を學ぶために年月を費やして、大切な知識を得るまでに進むことが出來ませぬ。さうなると、その國には少數の學者社會と多數の無學者社會とが出來て、相互ににらみあひになつて交際がふさがり、同情が缺けるやうになるから、その國の開化を進めることが望まれなくなります。』

土屋道雄『國語問題論爭史』(玉川大学出版部) ホイットニーの書簡より

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もちろん、中国だけではなく、日本も漢字や仮名遣いについて、同じように簡略化していこうという動きはあった。

国語国字論争と呼ばれるそれは、歴史的には、進んだ外来文明を取り入れ、近代化を測る際に、既存の言語体系では対応できなさそうな時に常に湧き上がってきた。

近年の日本では、明治の文明開化時に、前島密の漢字廃止論、西周のローマ字化論、森有礼の英語公用語化論などがあり、また昭和の敗戦後の当用漢字および現代仮名遣いへの変更などがあげられる。

冒頭の言葉は、言語学者のホイットニーによる森有礼からの書簡に対する返信なのだけれど、実に興味深い点を指摘している。

この往復書簡を持って、森有礼は日本語廃止論を唱えたのだと言われることもある。

だけど一橋大学名誉教授で言語学者の田中克彦氏は、これらの書簡では、文化の速やかな吸収・学習のために「不規則形を除いた」英語を日本の公用語に採用したらどうかとホイットニーに書簡で伺いをたてたところ、できそこないの英語はかならずばかにされて、正統・純正英語との間に限りなく差別を生みだすから日本語を捨ててはならないと諭したに過ぎないという解釈を述べている。

このホイットニーの解釈は「上求菩提 下化衆生」の観点からみれば、とても納得できるものがある。

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「上求菩提」は悟りを何処までも求める道。求めれば求めるほど、その坂は急峻となり、険しいものになる。そんな厳しい修行に耐えて、道を求め続けられる人は何時の時代もほんの一握り。

どの言語に関しても本来の精神を歪めることなく吸収しようとすると、やはり何処までも厳密に求めなきゃいけなくなる。だけど、そんなことをしたら、その道を歩める人は極々限られたものになってしまう。道を求める人と、とてもついていけない人との間に断絶ができる。ホイットニーが指摘したこの点は、まさに「上求菩提」の宿命というべきもの。

森有礼は、当時最先端を行っていた西欧文明をいち早く吸収するために、たとえ稚拙であっても、英語を日本の公用語のひとつとして速やかに学問吸収の一助とすべしである、とホイットニーに問うた。

森有礼のいう「不規則形を除いた」英語を日本の公用語に採用するという考え自体は、教えを簡素化してでも広く一般に布教して衆生を再度すべきであるという「下化衆生」の考えそのもの。

英語を公用語とすることで、広く普及すべしという「下化衆生」を主張した森有礼に対して、ホイットニーは他国語の学習は「上求菩提」でなければ成し遂げられるものではなく、またその道は険しくて多くの者は歩けないから、公用語には向かないという見解を示してそれを否定した。

言葉を変えて言うならば、森有礼とホイットニーの書簡の往来は「上求菩提」と「下化衆生」の兼ね合いの問題であったとも言える。

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画像国語国字問題

《前略》

初期論争

鎖国が終ると、日本は不休の近代化へと突入した。近代化において、漢文・和文を前近代の遺物であるとして、新たなる日本語を導入しなければならないという認識が高まる。彼等は舶来の知識を身につけ、日本が近代化する道を探るために西欧との比較を行い、結果として、前島密の漢字廃止論(「漢字御廃止之議」、1866年)、西周のローマ字化論(「洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論」、1874年)、森有礼の英語公用語化論(1872年頃)等が国語や国字の改革案として提出された。福沢諭吉はその著「文字之教」(1873年)において「(不便な漢字を無くす準備というのは)むつかしき字をば成る丈用ひざるやう心掛ることなり」として、漢文の使用中止、漢字の漸減を提唱した。新聞・出版社は、保有する活字を減らしたいという思惑から、漢字の簡略化、総数制限などを唱えた。しかし、それに対して漢字擁護派からは漢字利導論(三宅雪嶺)、漢字節減論(矢野文雄)など、漢字を廃止したりするのは却って実用にも教育にも不便であると主張した。漢字廃止論はその後カナモジカイや日本ローマ字協会の運動へとつながっていく。

明治維新で、教育・文学にも変革がおこった。教育においては学制の実施に伴い、教科書が整備され、そこでは契沖の仮名遣いを歴史的仮名遣いと名づけ、併せて字音仮名遣いも採用された。文学においては言文一致運動、新体詩、短歌革新、日本派など、漢文・漢詩・古今調・月並俳諧などの従来の表現では新しい時代に対応できないと主張する文学運動が展開された。中でも、言文一致運動では東京の言葉を用いて表現をする試みがなされ、一気に普及した。

1900年になって文部省より小学校令施行規則が施行され、字音仮名遣い及び変体仮名が排されて、漢字音はせうと著していたのをしょーとするような、いわゆる棒引き仮名遣いが採られ、また、仮名には一字につき一音という法則が打ち立てられた。1902年、文部省国語調査委員会が設置され、「文字ハ音韻文字(『フオノグラム』)ヲ採用スルコトヽシ假名羅馬字等ノ得失ヲ調査スルコト」「文章ハ言文一致体ヲ採用スルコトヽシ是ニ関スル調査ヲ為スコト」「方言ヲ調査シテ標準語ヲ選定スルコト」など、言文一致体、標準語の作成、文字の変更を前提にした方針を決定した。1908年更に臨時国語調査会を発足し歴史的仮名遣いの変更を打診したが、委員に選ばれた森鴎外や国語学者の山田孝雄、外野からも芥川龍之介(「文部省の仮名遣改定案について」)など、反対が多勢を占め、棒引き仮名遣いも取りやめることとなった。

その後上田万年を中心に再度仮名遣いや、漢字制限、字体簡略化が諮られ、1923年常用漢字表、1931年改正及び表音式仮名遣いの提唱などがなされた。その後軍政下は復古的な歴史的仮名遣い派と進歩的な表音仮名遣い派が一進一退を繰り返した。


全面的改革

敗戦後、アメリカ合衆国から教育視察団が来日し、ローマ字の使用を勧告、それを受けて土岐善麿らが中心となって国語審議会が出来、反対派を押し切って当用漢字および現代仮名遣いを勧告、それが順々に採用されて今に至る。

《攻略》

URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:Kzhr/%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E5%9B%BD%E5%AD%97%E5%95%8F%E9%A1%8C



画像森有礼の日本語廃止論 Pravda による 2007年11月11日 17時41分 の日記 (#421001)

荻野貞樹『旧かなづかひで書く日本語』(幻冬社新書)より。

旧かなや舊字(旧字)の使用を勧める本で、単に「旧かな舊字は美しく、また正統なる表記である」と言ってるだけの内容ですが、歴史的な解釈に疑問がありますので、覚え書き。引用だらけですけど。

上の本の「第六章 国語を壊さうとした人たち」に以下の記述があります。

のちに文部大臣となつた森有礼は明治の初めに、日本は、日本語を廃して英語を採用すべきだと主張しました。しかも森はその主張をアメリカ人言語学者・詩人ホイットニーに書翰で送り、そのホイットニーから厳しくたしなめられてゐます。

さらに、その論を補強しようとしたのか、土屋道雄『國語問題論爭史』(玉川大学出版部)から、ホイットニーの書簡を以下のように引用しています。

一國の文化の發達は、必ずその國語に依らねばなりませぬ。さもないと、長年の敎育を受けられない多數の者は、たゞ外國語を學ぶために年月を費やして、大切な知識を得るまでに進むことが出來ませぬ。さうなると、その國には少數の學者社會と多數の無學者社會とが出來て、相互ににらみあひになつて交際がふさがり、同情が缺けるやうになるから、その國の開化を進めることが望まれなくなります。

ところが、森有礼とホイットニーのやりとりは、単純な日本語廃止の議論ではなかったようです。まず、一橋大学の国語外国語化論のWebページより引用。

「残念ながら、森の国語(日本語)に対する意見を書いたものは、現在二つしか残存していないのである。その一つは、この Yale College 所蔵の Whitney 教授宛の手紙である。(Pravda中略)そのもう一つは、Education in Japan の巻頭の森の序文の終わりの部分の二、三ページのところである(参照、原書、五五~五六ページ、本書第三巻収録)。(Pravda中略)
この二つの森の論述を見ると、明らかに、Education in Japan の方が極端である。 ... 。
Whitney への手紙の方は、それに比べると、すこし穏当な見方をしているようである。内容は日本の国語廃止論よりもむしろ英語廃止論といってもいいくらいで、森は書翰の全八ページ中六ページにわたって、日本語でなく英語を攻撃しているのである。森のこの手紙での主要な意向は、日本で採用すべき英語は、いわゆる “Simplified English”(すなわち、根本的に改訂され簡略化された英語)である、ということを訴え、そのために Whitney の支持を求めるつもりであったらしい。」
(アイヴァン・ホール(Ivan Hall)[解説]「ホイトニー宛書翰」『森有禮全集』大久保利謙(編). 第1巻. 東京 : 宣文堂書店, 1972 (近代日本教育資料叢書. 人物篇 ; 1), [解説]p.93-94)

つまり、森有礼は「簡略化された英語」を日本の言葉として使用することをホイットニーに提案したようですね。

さらに、田中克彦『エスペラント』(岩波新書)では、森有礼とホイットニーとのやりとりを、以下のように解釈記述しています。

この問題(補:純正言語から派生した亜流の「露払い言語」の問題)には、森有礼が、1872年に、「不規則形を除いた」英語を日本の公用語に採用したらどうかと、言語学者のホイットニーにうかがいをたてたときに、かれは森有礼に対し、適切にも今で言う社会言語学的な解答を与えていた。──そうした舌たらずで、できそこないの英語はかならずばかにされるのが落ちだから、正統・純正英語との間に限りなく差別を生みだすであろうと。こうした舌たらず英語は、せっかくそれを身につけても、話し手は一段劣った英語から純正英語への強いあこがれをかきたてられ、ますます英語へと接近する露払い英語としての機能をたかめることになる。ホイットニーは、だから日本語を捨ててはならないとさとしたのである。

なるほど、上に引いた土屋道雄のホイットニー書簡の訳も、社会言語学的なコンテクストでも読めますな。

言語学は門外漢ですが、個人的には田中克彦の説を採りたいと思います。理由は2つあります。

まず1つは、ラジカルな言語学者という田中克彦の立ち位置で、この著書の中でも、

こどもたちにエスペラントを教えれば、かれらはおもしろがって大喜びでやるにちがいない。理由のない「規範」がいっさい無くて、せいせいするからだ。エスペラントに出会ったこどもたちはすべて、それだけで半ば言語学者の目をそなえるだろう。

と、日本語に執着しないこと、ちょっといかがなものかと思えるほど(笑)。
つまり日本語を破壊しようとした悪人(?)として森有礼をあげつらう理由が無いので、それだけに学問的解釈として信用できそうだ、という点。

2つめは、新かなや戦後漢字に変わった、というのはある意味で、「正統日本語」から外れたわけで、荻野貞樹が「旧かな舊字は美しく、純正な日本語である」と主張することは、田中克彦の言う「正統・純正英語との間に限りなく差別を生みだすであろう」という文章と呼応してしまう。私は差別主義者です、などと著作で主張する人は居ませんね(笑)。だから荻野貞樹の「森有礼は日本語を廃して英語を採用すべきだと主張した」という書き方は、ずいぶん単純化した書き方であるし、もし上記のことを知っていて目をつぶってるのなら、自分の都合のいいようミスリードを誘っているだけ。

しかし、森有礼日本語破壊説をまとめたのは時枝誠記だったのか…。

URL:http://slashdot.jp/~Pravda/journal/421001

この記事へのコメント

  • 丸まる子

    こんにちは。

    >荻野貞樹『旧かなづかひで書く日本語』(幻冬社新書)

    私も読んでおります。 日本語を破壊しようという動きは何も戦後に限ったことでないことを知って驚きでした。
    何だかんだ言っても韓国のように漢字を廃止したりせずに今までこれたことに感謝です。 ほとんどの分野を賄える完成した言語は数えるほどしかありません。日本語もそのひとつ。大切にしていきたいものです。
    2015年08月10日 16:51
  • 日比野

    こんばんは。丸まる子様。お返事遅くなり申し訳ありません。

    漢字を廃止しなかったことは本当に慧眼でした。今回のシリーズでいろいろ考察を進めていますが、日本は他国の文化吸収において、実に真摯にうけとり、それをいかに普及させるかにどれだけ心を砕いていたかに気付かされました。
    2015年08月10日 16:51

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