簡略化の誘惑(文化の普及について その3)

 
宗教なんかの布教活動で、多くの衆生に広げようと思えば、教えを簡単にすれば広がるけれど、あまりに簡単にしすぎると肝心の精神が失われてゆく。文化も同じ。
画像

確かに、物事を簡単に簡単にしていけばいくほど、誰にでも理解できるようになってゆくから、多くの人への普及を考えると、どんどん簡略化していきたくなる。だけど簡略化すればするほど、本来の意味が失われ、中身がなくなって形骸化してゆく。

「考えること伝えること」のエントリーで触れたけれど、何かの文化なり、精神なりを一般大衆に普及していく過程で大切になるのは「上求菩提 下化衆生」。

文化の本来の精神を求め、保持するところの「上求菩提」と、文化を簡略化して多くの人に伝える力となる「下化衆生」。「上求菩提」と「下化衆生」の二つが揃って始めて質と量のバランスが保たれる。

日本は漢字を保持することで質を確保し、ひらがな・カタカナを普及させていくことで量も持つことができた。

日本の小学校で最初に習う文字は「あいうえお」。ひらがなから入っていってカタカナ、漢字と進んでいく。簡単なものから難しいものまで段階を踏んで勉強できるようになっている。

平安時代に発明されたカナ文字をは、当時宮中の女性を中心に使われていった。だけどそのころは一般庶民は文字を使えなかった。文字は時代の流れの中で多くの人に普及していった。

画像


布教も文化も長い時間をかけて、普段の生活にまで溶け込むことでようやく定着してゆく。日本にはその時間があった。

もちろん教育しないと普及もなにもないのだけれど、社会が進んで、文字を必要とする人が増えていくにつれて、誰にでも理解できて、覚えやすい簡易化したものがないとなかなか広く普及していかないのも事実。そんなとき、仮名文字があって、漢字もある日本語の体系はすごく威力を発揮する。

簡単な入口となる文字から本来の精神を保持している文字まで有している文化には「上求菩提 下化衆生」があるから、普及しやすさと本来の精神それぞれを持っている。

だから、そのような奥行きのある文化や伝統を持っているということはとても大切なこと。

中国は識字率を高めるために簡体字を進めたという事情があったにせよ、近代化を急ぐあまり、いっぺんに全部やろうと焦って行った結果がいまの簡体字問題に繋がっているように思える。


画像



画像香港誌「中国は識字率100%の日本に学べ」 【社会ニュース】 Y! 2009/01/05(月) 10:51

  中国新聞社は4日、「中国は識字率100%の日本に学べ」とする香港のクオリティー誌『亜洲周刊』の記事を紹介した。同記事は2009年第2号に掲載された。記事は、農村出身の労働者、いわゆる「農民工」の問題にも触れ、中国では教育機会の均等が実現できていないため、格差問題が次の世代にも繰り越されつつあると論じた。

  記事によると、日本政府は1868年の明治維新以来、基礎教育の充実と識字率の向上に尽力した。大きな特色は「平等の追求」で、貧困地区にも繁栄する都市部にも、同様な教育環境を築いた。日本政府は家が貧しいために就学できない児童がなくすことを極めて重視した。

  一方、中国は文化大革命が終了した翌年の1977年に教育改革に着手。大学入試の復活などを、人々は大きな喜びをもって迎えた。ところが、教育分野でも「市場化」が進み、(採算がとれない)貧困地区では、義務教育さえ実施できていないケースがある。

  現金収入を得るため都市部で契約労働者として働く農村部出身者、いわゆる「農民工」は約2億人とされるが、彼らには都市部戸籍がないために、多くの子どもが通学の機会を失い、「二等国民」の烙印が次の世代にも受け継がれつつある。

  中国は外貨準備高が国別でトップになるなど、世界的にも影響力が大きな国になりつつあるが、2008年の政府予算に占める教育費は4.4%で、日本の過去10年間の8%以上と比べて、極めて低い水準だ。

  中国の教育費は日本の1925年のレベルで、政府予算に占める教育費の割合は、キューバや朝鮮(北朝鮮)など他の社会主義国や、アフリカの多くの貧困な国家にも劣る。

  記事は、「貧しかった30年前にも、比較的裕福な現在にも、中国には、貧しい子が存在する。さらに、最も無力で自らの権利を獲得できない一群の人々への差別視がある」と論じ「日本は識字率100%の国だ。中国は日本に学べ。まず、基礎教育の分野から始めよ」と主張した。

  写真は建設現場の作業員。中国では、「きつい・汚い・危険」など、日本で「3K」と呼ばれる職種に都市部出身者が就きたがらず、労働力の多くを「農民工」に頼っている。(編集担当:如月隼人)

URL:http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0105&f=national_0105_002.shtml

この記事へのコメント

  • 日比野

    美月さん、こんばんは。お返事遅くなりました。
    抽象概念については、それ自身が一つの論理回路だと思っていますので、それらをパック詰めして一言で表記できる概念語があれば、それをそのまま使うほうが効率的です。
    その意味で、明治期に概念語を多数和語に翻訳した意味は大きい筈です。当の中国でさえ、その近代化にあたっては、日本から輸入した単語の助けを借りたわけですから。
    2015年08月10日 16:51
  • 桜咲久也


    どんなに沢山の言葉を使っても、表現出来ない、複雑な
    伝えられない想いが心の奥底にあって、
    それがたった一言の幼い子供の言葉や、
    流れるメロディ、自然界の四季の法則の中
    から教えられ、こころ癒されるように
    一人涙することもあります。

    最近PCの状態がいまいちで、無音が続いていました。
    それが失われたとき、当たり前と思っていたことが
    一つ欠けるだけでこんなにも不自由するのかと・・・。
    そして、音がよみがえった時の喜びは、格別でした。
    今ある中に多くの幸せを見つけられる人は、幸福だと思います^^
    2015年08月10日 16:51
  • 美月

    異国要素が渾然一体に混ざり合った言葉のほうが、語彙の自由度が増えるのか、より抽象的な概念も丁寧に分けられるようになる…というのが面白いです。

    タイ語は基本的には中国語と同系の言葉だそうですが、抽象的な概念を表すときはサンスクリット語の語彙が大活躍しているそうです。英語でも法律用語などの抽象的語彙はラテン語の借用が多く、日本語でも抽象的語彙は漢語の借用が多いという事で…

    漢語の読みを覚え込むと言うのは、いわば「ラテン語-英語対応辞典」を丸ごと記憶するのに等しい作業だと言えるのであって…ヨーロッパでラテン語が知的教養の基礎であったことを考えると、漢語の音読み・訓読みがどれほど日本の知的教養の深化に寄与したのか…想像できないです(汗)。

    古代朝鮮では吏読が行なわれていたという事ですが、今や失われた言語技術であるらしい(?)のが悔やまれますね。
    2015年08月10日 16:51

この記事へのトラックバック