日本のみならず、海外でもネットブログが盛んだけれど、中華系の日本語メディアであるレコードチャイナとかサーチナとかでは、いくつかの中国ブログサイト記事を翻訳して紹介している。
その中のひとつ、中国の「新浪博客」というブログで、中国で生まれた多くの文化が日本に渡り、発祥地であるはずの中国がそれらの文化本来の「精神」を失っている現状に対して、警鐘を鳴らす文章を掲載したらしい。
確かに日本は多くの文化を受け入れてきた。日本の文化は、基本的に大陸や海外から輸入してきたものを保存し、かつ自分たちで使いやすいようにカスタマイズしていく形。
日本的価値観の構造のシリーズエントリーでも触れたように、古いものでも捨てることなく、とりあえず取っておく建て増し構造を持っている。
日本文化は過去何千年かの思想、文化が堆積してずっと残っている。たとえそれを用いるときに自分たちの使いやすいように変容させたとしても、原本そのものを焼却したり、抹消したりすることはない。
和服は三国志時代の呉の国の服(=呉服)の伝統を今に伝えているし、正倉院の宝物も現在に残っている。平安時代なんかのように大陸文化の輸入を止めて、国風文化が栄えて、正倉院の宝物が忘れ去られても、泥棒にあって散逸することもなく、そのまま残っている。
過去の文化が分断されることなく、堆積しているというのは凄い威力を発揮することがある。たとえば、何かの問題に直面したとしても、大抵過去を振り返れば似たような経験をしているものだし、その時その時でどう対処していったかという歴史を掘り起こして参考にすればいい。時にその様式は言葉とか、ちょっとした慣習として今でも残っていたりすることもあるから、その場合は復興させるのはさらに容易くなる。
日本がそうやって、過去の文物を取り入れ、それを捨てないという行動の奥には、物事に対して、徹底的に白黒つけてしまわない、という考えが潜んでいるように思う。もっといえば、すべてのものにはどこかしら善いところがあり、それが故にそれを捨てるには忍びない。たとえ、今は使えなくても、将来何かの役に立つかもしれない。だからその時までとっておこう、と。
中国の易姓革命なんかだと、王朝が変わるたびに過去の遺産を抹殺してしまうから、文化が堆積していかない。天意によって、君主が交代するという易姓革命的考えは、ある意味において新旧の君主に白黒をつけていると言える。
この白黒つけてしまうという考え。善悪の裁定を社会・文化として、どこまで厳しく要求していったかが、現在の日本と中国の差を生んだ一因なのかもしれない。


15日、中国で生まれた多くの文化が日本に渡り、発祥地であるはずの中国がそれらの文化本来の「精神」を失っている、と中国人ブロガーが指摘した。写真は中国の伝統的な茶道。2009年4月15日、中国ブログサイト「新浪博客」が、中国で生まれた多くの文化が日本に渡り、発祥地であるはずの中国がそれらの文化本来の「精神」を失っている現状に対して、警鐘を鳴らす文章を掲載した。
ブログ著者によると、たとえば尺八は、古代中国に起源をもつが、伝承できずに失ってしまった文化のひとつだという。書道についても、多くの日本人が現代中国の書道を「正統」とは認めず、日本の書道のほうが優れていると思っている、と指摘する。また、かつて中国で開かれた国際茶道文化研究会の席で、日本人の茶道家が、「中国には茶道がない」「中国の茶道は日本に及ばない」という旨の発言をしたとき、怒りをおさえきれなくなった中国の茶道家が、発言者に殴りかかろうとした出来事もあったという。
著者は、日本人の中には、中国の古典「礼記」の中心思想「敬」が根付いている、と言う。だから外来の文化であってもそれを尊び、本来の精神を守ろうとする。そうして、結局はそれが「正統」になっていくのではないか。「文化の故郷とは、人と同じで、安心して根を下ろせる場所のことではないだろうか」と著者は指摘する。
このほど、中国で三国志をもとに製作された映画「赤壁」が公開されたが、観客を喜ばせるために本来の姿がゆがめられているのを感じた著者は、「そのうち日本人は『三国志は日本で学ぶほうがよい』とまで言うようになるだろう、と嘆いている。(翻訳・編集/津野尾)
URL:http://news.livedoor.com/article/detail/4116225/

家の「お片付け」の一環で掘り出された、未使用の古ーい絵葉書に、古代中国の偉人が描かれておりました。かつては興味のカケラもなかったのに「着物を見る目」で見た現在、めっちゃ興味深い!これはまさに呉服‥日本のキモノの源流ではないですかっ!(@_@;
このお方は、張仲景(ちょう・ちゅうけい)という、後漢代のお医者さん。紀元200年頃と言われています。
襟合わせ。重ね。袂。裾。パーツ、構造が、非常に「キモノ」を思わせます。上着は、何だか道中着みたいですね。裾は完全にAラインです、現代のお直しおばさんに見られたら「アラアラみっともない!」と注意されちゃうでしょうね(爆)それとも袴的なものなのかな?
身の真ん中に何かぶら下がったものは、室町~戦国時代の衣装である能装束で見かけるものとよく似ています。細帯を締めた余りを装飾的に前に垂らすもののようですが、見るたびに「現代でいえばネクタイみたいなものかな?」と思っています。あるいは首からぶら下げるネームタグ?
袂は、振袖のように長いですね。そして、長襦袢と丈が合ってません。やっぱりお直しに‥ってちがーう!(^^; 身分が高くなるほど、衣服は装飾的に、非実用的になる傾向がありますから、この袂の長さから、おそらく身分の高い人なのだろうということも読み取れます。
この方より150年くらい下った時代に『肘後備急方(ちゅうごびきゅうほう)』という医学書があります。肘後、というのは、袖の下、まさに袂のこと。備急というのは、もしものときに備えて、とか応急処置とでもいうような意味で、方は方法のこと。現代訳すれば「救急ポケットマニュアル」です。ポケット、の部分が「袂」であることが大変面白いですね。
衣服に袂がある。袂はモノ入れとして使われる。この構造を理解していないと、1700年前の古書のタイトルがピンときません。もしも和服が完全に忘れられていたら、古代中国に「ハンドブック」があったんだというイメージ作りが、ストレートにはできないに違いありません。
張仲景とは、中医学の礎の一つとなった『傷寒雑病論』という不朽の名著を残した人です。驚いたことに、現代でも薬局や病院で処方されるメジャーな「漢方薬」の中には、この本に載っているものも沢山含まれるという、歴史的にもそして臨床的にも非常に優れた医学書です。
日本では稲作が始まり、邪馬台国が現れ、古墳が作られ、やっとこさ「社会」ができ始めた頃。殆どの日本人は竪穴式住居に住まい、食事は手づかみ。そんな頃に、このような衣服をまとい、文字と歴史と社会制度を持ち、「医学」までも発達させた海の向こうのお隣の国は、日本にとって目も眩む先進国であったことでしょう。
後漢の次が、魏・呉・蜀三国時代。この絵は、和服のルーツ「呉の服」のそのまたルーツなのであります。
かつてだったら「現代では滅びたなんだかダラダラ重ね着した服」にしか見えなかったであろうこの衣服が、連綿と続く構造を同じうし、細かいパーツは変遷している、着物との対比で観察できます。和服によって獲得された「視線」は、こんなに遠くまで届くのだ、と感慨。
URL:http://kimonoasobi.seesaa.net/article/41847682.html
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