■運命について考える

 
今日は過去エントリーの再掲をさせていただきます。

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1.運命のエリア

運命について考えてみたい。運命、宿命についてWeb辞書で引いてみると、こう定義されている。


#NAME?
1.超自然的な力に支配されて、人の上に訪れるめぐりあわせ。天命によって定められた人の運。「すべて―のしからしめるところ」「これも―とあきらめる」
2.今後の成り行き。将来。「主人公の―やいかに」

#NAME?
  前世から定まっており、人間の力では避けることも変えることもできない運命。宿運。「これも―と思ってあきらめよう」


運命にせよ、宿命にせよ、人間の力では避けることも変えることもできないもの、とされている。

運命または宿命を考えるときには大切な観点が二つある。ひとつは、運命の「有効範囲」、もうひとつは運命の「賞味期限」。

仮に運命が絶対の100%だったとしても、それが誰に対して、または世界のどの範囲まで効力が及ぶのか、という視点が「運命の有効範囲」。

運命が運命として効力を発揮するのが永遠不滅なのか、それとも、いついつ迄といった期間限定のものなのか、という視点が「運命の賞味期限」。

「これも運命(宿命)と思ってあきらめよう」とか「主人公の運命や如何に」という具合に使われる場合の有効範囲は個人だし、「これが国の運命なのか」だとか「これは民族が背負った宿命なのだ」とか言う場合は、とうぜんその国や民族全体が運命の有効範囲になる。「ナントカの大予言」の類なんかがそう。

だけど、運命づけられた出会い、だとか、ナントカの大予言とかいうものだって、いざ出会ってしまったり、予言が成就してしまった後はもう何もない。だから普通は運命には賞味期限があって、それを過ぎるとあっという間にその効力を失う。

運命だ宿命だとかいって諦める前に、その効力範囲と賞味期限をしっかり押さえておくことが大切。

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2.共業と不共業

運命に有効範囲や賞味期限があるとするなら、それは物理法則のような永遠不変の法則ではないということ。必然的にそれは運命そのものに、その運命自身の生成原因と寿命があることを示してる。

運命は、人や人が作り出した社会に依拠して始めて存在できるもの。人や人の意思が全く介在しない状態で、何がしかの運動をしたり、変化したりするものがあるとすれば、それは運命ではなくて法則。人が居ようが居まいが存在するもの。

だから、運命の有効範囲や賞味期限は、人々の考えや人々がこれまで考え、行い、積み重ねてきたものの集積によって、その範囲と期限が規定されることになる。仏教的にいえば業(カルマ)がそれにあたる。

仏教では、業(カルマ)というものを、行為それ自身と捉え、単なる業としてだけでなく、業(カルマ)が及ぼす力があると考えた。そしてその業は、心を動かし(意業)、言葉になり(口業)、行動に現われる(身業)としている。

つまり、人の社会や人が生きてゆく中で、考え、語り、行ってきたものの積み重ねが業(カルマ)となって、それがまた人々に影響を与えるという考え。これは善因善果・悪因悪果といった、縁起の考えそのもの。

だから、運命というものは、縁起の法に則って積み重ねられてゆく業(カルマ)によって生成された結果であって、原因じゃない。

さらに仏教では、この業(カルマ)を、社会全体、人類全体というような大勢の人々に共通の結果を引き起こす業(カルマ)と、自分だけに起こり他人や社会には共通しない結果を引き起こす業(カルマ)と二つに分け、前者を「共業」、後者の個人の業を「不共業」と呼んでいる。

たとえば、ある人が清く正しく生きて、善因善果を積み重ねていたとしても、その人の生きている国が戦乱の中にあったら、かなりの確率で戦(いくさ)に巻き込まれてしまう。逃げたくても簡単にできることじゃない。

この人は個人の生き方という「不共業」レベルでは善行を重ねて、幸運な結果を招き寄せる筈なのだけれど、また同時に、その戦乱の時代という「共業」レベルで、なかなかに避けることのできない不幸な結果の渦中にある。

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3.善業と悪業の綱引き

どんなに清く正しい人であっても、共業のレベルで災厄に遭うことはある。だけど、共業であれ、不共業であれ、業である限り、それを乗り越えることは可能。乗り越えたいと思った時点から、その悪業を断ち切るための善業を積んでいけばいい。

とはいえ、人は過去にさかのぼることはできないから、過去に積み重ねてきた業はそのまま残っている。もう一度やり直しというわけにはいかない。過去の悪業は、業力として依然効力を発揮している。だから悪業を断ち切るために善行を行ったといっても、紐を鋏で切るようにハイサヨナラというわけにはいかない。過去の悪業と現在から未来にかけての善業との綱引きの力関係でその結果は変わってくる。

たとえば、昔からずっと悪口ばかり言っていた人が、今日からいきなり悪口をやめて、良い言葉を話そうとしても、中々そうはいかないように、昔から行ってきた習慣は、簡単には直らないもの。

同じように、過去の悪業が物凄く大きければ、ちょっとやそっとの善行では如何ともしがたいことは事実。だけど、善行を弛まずに積み重ねていけば時間とともに少しづつではあるけれど、その悪業は修正されていく。また、その悪業を断ち切る善行を多くの人が一斉に行うことで数の力で圧倒できれば、悪しき結果を遠ざけることも可能になってゆく。

今は地球環境汚染が問題になっているけれど、これも何十年か昔から人類が環境を汚染してきた悪業が、悪しき結果となって現われていることに他ならない。今にしてようやく各国が地球環境対策を行わないといけないと考えるようになってきた。

だけど、それがどこまで今の汚染を食い止め、改善してゆけるかは、過去汚染を積み重ねてきた悪業との綱引きに勝てるかどうかによる。

だから、運命の効力範囲と賞味期限を把握できたら、その次に考えるべきことは運命の実現可能性を見極めること。過去の業と未来への業の綱引きの力関係を見通すこと。
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4.マモノと思考停止

「魔物がいたほうが話が早くていいですね。だからマウンドのピッチャーががっくりしてても、いや"魔物"がいるんだ。だから思い切って投げろと。お前が悪いんじゃない。相手が良いわけでもない。魔物なんだ。・・・性格的にピッチャーは、、ほんとすごい、こう、ほんとここでも全然違いますけど、性格がね・・・逆に魔物がいたと思ってたほうが、僕たちもやり易いね。・・・」

1999年にテレビでやった「南原プロ野球研究所・プロ野球討論会」で、野球の格言は本当なのかをテーマに議論していたとき「球場には魔物が棲んでいる」という格言の是非の話になった。そのときのヤクルト古田選手(当時)の半分冗談めかした発言。

縁起の法を無視して、自分や他人じゃない何かのせいにして、それで納得させてしまうやり方は確かに楽ではあるけれど、それは半ば思考停止であって、そこから未来を変える力は得られない。

こうした人知の及ばない何かに責任転嫁してしまう考え方が怖いのは、何がしかの意図をもった誰かに簡単に操られてしまうようになること。

たとえば、何かの陰謀(論)者が終末思想を利用しようしたら、地球の危機が現実になりかねない。

終末思想って、要は「この世の終わり」のこと。特にキリスト教文化圏では割りと根強い思想。黙示録に描かれているような世界。沢山の人が劫火に焼かれて、人類滅亡かというときに、イエス・キリストが復活し、人類を救済して千年王国をつくるのだ、と。

仏教や儒教では、そこまではっきりとした終末思想はないから、アジアなどではそうした文化が根付いていない。だから、終末思想が仏教圏や儒教圏で広まることがあるとすれば、もう少し別の形を取ることになる。○○の予言とか、ニューエイジ思想とか。

日本だと、20世紀末に流行った「ノストラダムスの大予言」の中の一節にある「恐怖の大王」って何だ、って騒がれたりしていたけれど、核ミサイルじゃないかとか、いやいや巨大隕石だ、なんて言われていた。

万が一そんなことが本当に起こるとしても、人々の心が終末思想に囚われていると、これも運命なのだ、と思って未来を変えようとはしなくなる。

もっとも当の予言者は、未来がそうならないための警告として予言しているのだ、というのだけれど。

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5.陰謀論と終末思想
 
この終末思想なり終末予言を陰謀論に利用されてしまうと、「この世の終わり」を演出する際の言い訳に使われてしまう危険がある。

たとえば、まだ世界政府という考えのは陰謀論の枠組みの中にあるけれど、世界がグローバル化すれば、一元管理したほうがいいと考えるのは合理的な帰結。

仮に、世界をひとつに纏めようとする手段を考えてみた場合、一番簡単なのは、地球の危機を煽ること。外敵を作るという古典的手法。できれば危機をもたらす相手は地球人では無い方がいい。宇宙人が攻めてくるとか、太陽が爆発するとか、彗星や隕石が衝突するとか。

なぜかと言えば、世界全部を一元管理する世界政府を樹立するためには、地球上のどこかの国を敵として仕立て上げるのは都合が悪いから。

今ならたとえば、ニューエイジ思想なんかに見られるように、2012年にフォトン・ベルトに地球が突入するのだとか、アセンションして地球が次元上昇するのだ、とかいうのがあったりする。その中では、そのころ大災害とか起こったり、地球の次元上昇の影響で大量の人間が地上を去るだろうなんて言ったりしてる。それなのに、それを避ける手段については、全くと言っていいほど触れていない。

アセンションといえばなにやら格好良いように思えるけれど、要は「お前達は、近いうちに皆死ぬのだ。」と死刑宣告していることと大して変わらない。

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6.現実世界を肯定する
 
仮に、世界政府樹立を目論む勢力がいたとすると、彼らにとってこうした「耳ざわりの良い死刑宣告」というプロパガンダが、世界の隅々まで浸透していく事はとても都合がいい。

なにせ死刑宣告をしているのだから、何人死のうがいくらでも言い訳ができる。

「貴方が悪いんじゃない。国が悪いわけでもない。次元上昇(マモノ)なんだ。」 

と言えばいい。

世界政府の樹立を目論む勢力からみれば、世界統治をより容易にするために、統治手段やインフラ整備・食糧エネルギー供給などをみて、地球人口を今より少なくすべきと考えてもおかしくはない。しかも、世界統治に邪魔な勢力や国を意図的に壊滅させてしまうことができるならもっといい。

ただ、本当にそんな勢力がいたとしても、地球人口を激減させる手段として戦争という手段に訴えることは、少々乱暴に過ぎる。ましてや核なんかを使ったら最後、自分自身も被害をうける可能性がある。リスクが大きすぎる。全面核戦争は賢いやり方じゃない。

せいぜい「悪の枢軸国」を仕立て上げて、正義の名の下に通常兵器で成敗するくらいが関の山。理屈上は自分達さえ安全であれば、核だろうが何だろうが、何をどう使おうがお構いなしになってしまうのだけれど。

それよりは、全部マモノのせいにしてしまう方がずっと楽。

たとえば、地震・津波などの天変地異を誘発させたり、致死率の高い疫病を蔓延させたり、食料やエネルギー不足の状況を意図的に作り出したりするとか。もちろん本当にそんなことができるかどうかは分からない。

要は人が手を下さず、自然(マモノ)が人を死に追いやった様に見せかけ、そうだと信じ込ませられそうな手段を使うほうがずっとスマートだということ。

だから、アセンションだとか、フォトン・ベルトだとか言っている中に、現実世界をどう救済して、どう良くしていくかという中身そのものを見ることが大切。

確かに伝統的な宗教は来世の幸福を説いたけれど、だからといって現代社会の進化そのものをいつまでも否定し続けるのならば、昔ながらの難行苦行が大切なのだと言い続けるのならば、やがてその宗教は時代と乖離して、多くの現代人の救いにはならなくなってゆく。その意味では、伝統的な宗教も今の時代におけるあり方を問い直されているのかもしれない。

多くの人が、現実世界を丸ごと否定して、あの世だけを考えるようになってしまったら、それこそ陰謀者は現実世界を好き勝手に支配できてしまう。

現実世界をより良くするためには、現実世界をちゃんと見つめて、現実をまず受け入れて、肯定することから始めなくちゃいけない。そこがスタート地点。

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7.この世に生きる意味
 
この世に生きる人は、未来が分かる訳でもなければ、壁の向こうが見えるわけでもない。

あたかも目隠しされて、手探りで生きているようなもの。輪廻転生が事実であってもそうでなくても、この世に生きている人の殆ど全ては過去世なんて覚えていないから、輪廻転生の真偽に関わらず、この世に生きる人は、事実上過去から切り離されている。

この世は、自分も相手も認識できる範囲が極めて限定されている者同士で生きている世界。ゆえにこそ、そんな中でも優しく生きていける人は、心から真に優しい人だし、誠実に生きている人は魂から誠実な人。

過去世の記憶を持っていたりすると、過去嫌われる生き方をして、迷惑をかけたから、今度はそうしないでおこうとか、逆に過去尊敬される人生を送った記憶が残っていたら、今度もそうしなきゃと思って、自分で自分を縛る人生を送ることになる。

また、未来や遠くの出来事を見れる千里眼なんかを持っていたとしたら、未来の悲惨な出来事をみて生きる気力をなくしたりもするかも知れないし、逆に未来の栄光をみたら、それで安心して努力しなくなるかも知れない。

だから、この世は極めて制限がかかった世界ではあるけれど、制限があって、生まれるときにリセットがかかるが故に、この世で生きるということに意味が出てくる。

目隠しされて、過去世の記憶もなく、未来も分からない存在。それは自分を誤魔化すことができない世界。心根が露になる世界。

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8.未来は変えられる

未来は変えられる。

運命や業(カルマ)は縁起の法に依拠しているから。

善因善果・悪因悪果はその通りの結果を導いてくる。カルバンの予定説のように運命が予め決まっていて、100%絶対で揺るがないのであれば、縁起の法は成立しない。

世の中が縁起の結びつきで成り立つ限り、ひとりひとりの行動は確実に自分を変え、世界を変える。

確かに過去積み上げてきた悪業が大きすぎて、善業が追いつかないという場合だってある。だからそれをもって運命だと言うことだってできるけれど、それとて、縁起の法に基づいた予測可能なものでもあり、逆に縁起の法が揺るがずに完璧に働いていることを証明している。

ある意味予言なるものも、過去の業の積み重ねを読みとって、未来に起こりうる結果を予測しているにしか過ぎないのかもしれない。

大切なのは、正しい情報に基づいた正しい判断と正しい生き方を積み重ねていくこと。間違った思想や間違った行動を積み重ねていくと、それが悪業となって悪しき結果を招く。

明るい思想に思いが向けば、自分の行動もそのようになってゆくし、逆に暗い思想に思いが囚われると、そのように選択していって自ら暗闇に落ちていってしまう。

心と肉体は相互通信、色身不二の関係にあるから、思ったことは言葉と行動に現われて、縁起の糸を伝って社会を少しづつ変えていく。

闇に閉ざされた心からはマモノが生まれ堕ち、光に満ちた心からは天使の翼が羽をひろげる。

運命に立ち向かうのも、未来を変えるのも、ひとりひとりの心から始まる。

光に満ちた心は、光あふれる言葉となり、まばゆい行為となって伝わってゆく。

ひとりひとりの輝きが世界に満ちるとき、運命はその姿を変える。

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