公私混濁からの脱却 (報道と選択について 最終回)
林思雲氏が述べている「避諱」を表しているとされる論語の「子路第十三」のやりとりをもう少し詳細に見ていくとあることに気づく。公(おおやけ)と私(わたくし)の問題がそれ。
葉公と孔子のやりとりは、親と子という肉親の間柄での話。公私でいえば、極めて「私」に近い領分での例。
このやりとりは、親子のような極めて私に近い関係の中で、どこまで厳格に公のルールを適用すべきかどうかの問題に帰着してゆく。
たとえば、子供のおやつのクッキーを親がひとつ食べてしまって、それを見た子供が裁判所に訴えたとする。法を最高に厳格に適用するならばこうしたこともあり得るのだけれど、親子関係を壊してまでもそこまでやるべきなのかどうかという問題。
孔子の言いたかったことは、いわゆる家族愛であって、互いに支えあって生きてゆくことが大切だということではないだろうか。
だけど、こういった「私」に関わる家族愛としての「避諱」は、その人がどこまでを「家族」と思うかによってその適用範囲が変わってくるという問題を抱えている。
もちろん、家族の中には親子であっても勘当して別れ別れであったり、兄弟喧嘩なんかして互いに憎しみあっているような、血は繋がっていても全く別人のような関係もある。そうした関係の中ではクッキーひとつで本当に訴えられてしまうことだってあり得る。
だから、家族愛としての「避諱」の適用範囲は、自分にとって他人をどこまで「身内」と考えるかによるのだけれど、極端な話、知り合いなら誰でも身内だとするなら「私」が「公」全体にまで拡大されて、公私の区別はなくなってしまう。
現実には、そこまで極端な例はないだろうけれど、例えば、国家指導者や高名な学者、オリンピックの金メダリストなんかの様に国民的英雄になると、自分は知っているし、世界に誇れるし、気分がいい。
だからそうしたヒーローと自分は本当は会ったことすらないのに、勝手に自分の身内だと思ってしまうことだってあるかもしれない。ここまでくると、公私混同というか、自分と他人がごっちゃになった「公私混濁」のような状態。
そうしたとき、自分が勝手に身内と思い込んでいるヒーローが、不祥事を起こしたりなんかすると「避諱」の情から守ってあげようと嘘をつくかもしれない。そんな心理が働く事は理解できなくもない。
だけど、そうした勝手な思い込みによる「避諱」が社会全体に蔓延すると、売買行為などのように自他の関係を明確にする「契約概念」が成立する余地はどんどん無くなってゆく。「避諱」は契約を前提とする現代の資本主義社会にはあまり馴染まない。
林思雲氏によれば、今の中国人は、虚言は現代社会と両立しないということに気がついていて、近年“誠信(誠実と信用)”ということがしきりに言われているという。そして、中国人の思想や思考様式は次第に避諱から離れる方向へ発展し、“誠信”へと近付きつつあると締めくくっている。
だけど、避諱から離れて誠信へ向かうためには、いかにして公私の区別をつけるか、本当の意味での個の確立を如何に作っていくかにかかっているように思う。
この記事へのコメント
60点
4回にも分けて長々と読ませるほどのテーマだったのか疑問。
結局あなたの伝えたかったことは何なの?という気持ちにしかならない。
日比野
確かに4回も分ける内容ではなかったかもしれませんね。
ご忠告ありがとうございました。