漢服ブーム(文化の普及について 補追1)

 
中国・上海の若者たちの間で、漢服を着ることがブームになりつつあるという。2001年に上海で開かれたAPECで各国首脳が着た中国伝統衣装は満州族の衣装が基本デザインだったために批判が集まって、漢族古来の衣装を見直す動きが始まったらしい。

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今では少しづつだけど漢服愛好家も増えて、中には結婚式などで漢服を着る人も出てきている。

ところが、今の中国人の殆どは漢服なんて知らないものだから、漢服を見たとたんに「和服か!出て行け!」とか「小日本を打倒せよ!」とか罵声を浴びせられることもあるという。

もともとの起源が同じだから当たり前なのだけど、確かに日本人からみても良く似てはいる。

彼らからみて、日本風に見えるだけで罵倒を浴びせる感覚もどうかとは思うけれど、それ以上に彼らが何処まで自国の伝統文化が失われていることに意識を向け、危機感を持つかに注目している。

というのも、元々の伝統文化を時の政権の意向で破壊される悲哀は、今まさにチベットやウイグルの人々が体験していることそのものだから。

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自分たちが、チベットやウイグルに漢民族を大量に移住させて、民族浄化・文化破壊を行っていながら、当の漢民族自身も自分の伝統文化を破壊されてしまっていることをどう感じるのか。

漢服がブームになれば、人民レベルで、各地方民族の伝統文化を破壊してはならないという意識が生まれてくるかもしれない。もしそうなったら、中共政府はそういう動きに危惧を感じ、なんらかの処置をするかもしれない。

ある意味、漢民族も自分の伝統文化を失った中華の歴史の被害者だといえる。そのことにどこまで反省できるかが、中国の未来を暗示しているようにも思える。

漢民族の伝統文化を破壊したのは満州族のせいだとか、他人のせいにしているだけであれば見通しはそれほど明るいものにはならないだろう。

願わくば、漢服ブームが全中国的な広がりを示し、自分達がこれまで何をやってきたか、何をしているかを見直す一助にならんことを。

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画像中国四川省:漢民族伝統結婚式、古式豊かに再現

 【大紀元日本12月11日】ウェディングドレスを着て教会で愛の誓いを交わす、このようなロマンティックな結婚式は中国の若者の夢。しかし、近年、漢民族の古代服装を着て古代の結婚式を挙げる若者が増えている。四川省重慶市奉節県城のある新婚さんは最近、漢服(漢民族の古代服飾)を身につけて、恋歌を歌いながら町を一周する古代の結婚式を行い、町中は数千人の見物者でにぎわった。

 新郎・梁ジュンさんと新婦・李雨欣さんは、漢民族の古代服飾に憧れている「漢服ファン」。結婚式に身に着けていた「漢服ウェディングドレス」はウェブサイトで、上海にオーダーメードしたという。また、結婚式の様式も珍しく、午前9時に花嫁は花婿一行に迎えられてから、町の商業区を回り、結婚式場へ向かった。

 結婚式場では、琴の生演奏の中で、天地の神および両親に結婚の許しをもらうために、天地および両親を拝み、礼をするという古くからの儀式を開始し、「結髪夫妻(双方とも初婚で結ばれた夫婦)」に因んで、花嫁は花婿の髪の毛数本を切り、自分の髪に「連結」した。さらに、花婿は赤い糸の両端に結ばれている杯に酒を満たし、花嫁と2人で「交杯酒(新郎新婦が杯の酒を半分のみ、また杯を交換して交互に飲む)」を交わした。

 梁氏さんによると、花嫁と共に漢服の大ファンで、漢服と古代の仕来りで中国の伝統文化を広めたい気持ちから今回の結婚式を考えたという。二人の漢服は自前だったが、花婿の介添人たちの服飾は「漢ネット論壇」ウェブサイトでこのことを知った人々から無償提供されたという。二人は結婚後も、しばらく漢服で通勤したいと考えているそうだ。

 漢民族は中国の56もある民族の中で、中国総人口の90%以上を占めている最多の民族である。1644年、満州族が中国を支配してから、漢民族が強制的に満州族の髪型にさせられ、服飾や慣習などに従うよう強要されたため、3千年も続いた漢民族の礼儀作法、伝統文化などが消失してしまったという。また、近代においても、中国共産党政権による文化大革命により伝統文化が破壊されてしまった経緯がある。

 最近、伝統文化に目を向ける人々が増えているようだ。特に今年の七夕(漢民族の伝統的な祝日)に、上海、広州、青島、寧波および南京各市の町、公園やバーで漢服愛好者が多く現れ、メディアの注目を集めたという。

(06/12/11 09:58)

URL:http://jp.epochtimes.com/jp/2006/12/html/d12986.html



画像長春市の孔子廟 漢服を着て成人式

7月15日、吉林省長春市の文廟(孔子廟)では、第1回団体成人式が行われた。17歳から22歳までの青年が漢服(漢民族の伝統式衣服)を着て成人を告げた。

URL:http://japanese.china.org.cn/life/txt/2007-07/17/content_8538634.htm



画像伝統衣装「漢服」への認識薄い現代中国人=和服と間違え罵倒する人も―中国誌 [2009-05-13 12:55:58]

2009年5月12日、雑誌「小康」は、漢民族の伝統的衣装とされる漢服を広めている人々の記事を掲載した。中国独自の文化が再評価されるなか、漢服もブームとなりつつあるが、しかし意外な困難もあるのだとか。

同グループは時折漢服を来て出かけることがあるというが、しかしそこで直面するのは人々の奇異な視線。時には日本人か、朝鮮人かと聞かれることもあった。あるメンバーは漢服を来て北京五輪を観戦したところ、会場スタッフから英語で話しかけられたという。

さらに辛い出来事があったのはインターネットでのこと。自身のブログに漢服を来た写真を掲載したところ、「和服か!出て行け!」「小日本を打倒せよ!」などと書き込まれたという。

ある漢服愛好者は「和服はもともと唐代の衣装が伝わったもの。韓国の伝統衣装も中国の唐、宋、明の衣装が伝わったものです。日本人や韓国人が漢服を見て自国の衣装と間違えることはないでしょうが、中国人が漢服だと気づくことはほとんどありません」と嘆いた。

ある漢服を販売している女性が店の窓口に「あなたは漢民族ですか?漢民族の伝統衣装を着たことがありますか?」とのポスターを貼ったところ、多くの反応があったという。

大手ポータルサイトのバイドゥの掲示板では、自国文化を知らないことに気がついたネットユーザーが多く、詩経などの古典を読み勉強し始めたものもいるという。

(翻訳・編集/KT)

http://www.recordchina.co.jp/group/g31325.html



画像「漢服」の変遷と特徴 漢服デザインコンテスト開催中

 【大紀元日本5月18日】現在、「グローバル漢服デザインコンテスト」が開催中である。これは、新唐人テレビ局が主催する一連の文化芸術コンテストの一つで、「正統な理念を具えた優秀な漢服服飾文化が世界に広まることを促進し、純善純美の中国の伝統的な服飾文化を発揚する」のが目的だという。

 2008年1月にスタートした本コンテストは、7月7日まで第一次審査のためのスケッチを受け付けている。関心のある方は、こちらをご覧ください。英語による説明もあります。

 下に、そもそも漢服とは何か、漢服はどういう特徴を持っているのかということをご紹介しましょう。


 ▼漢服の知識

 中国は、古より華夏、中華と称されてきた。中国大陸の多くの民族の内、漢族は最大の民族であり、「華夏民族」或いは「中華民族」と称された。それゆえ、漢服は、「漢装」「華服」とも言われる。

 漢服とは、「漢朝の服飾」のことではなく、漢族の伝統的な民族服飾のことであり、世界でも最も悠久の歴史を持つ民族服飾の一つである。漢服は文化芸術、詩歌、琴碁書画、武術剣道、音楽舞踏、茶道など全ての中華伝統文化と最もマッチする服飾である。

 歴史的に伝承し発展させる過程で、漢服は古人の「仁、義、礼、智、信」の道徳的内包を十分に現して、さらには純善純美な中国伝統服飾芸術の重要な象徴でもある。


 ▼漢服の定義

 漢服という言葉は、初めは他の民族が漢人の伝統的な服飾に対して言ったものである。胡人(北方や西域の異民族)の伝統的な服飾を「胡服」と称したことから、漢人の伝統的服飾を漢服と称するようになった。このため、漢服とは主に、中国古代の三皇五帝から明末(17世紀中葉)までの数千年におよんで漢族が着用してきた漢族の伝統的な服飾のことであり、その全てを漢服と称した。


 ▼漢服の起源

 多くの人が古典史書の記述から推察するように、古代の三皇五帝の時期には、人々は鳥獣の毛皮をもって衣とし、その後麻を用いて布を作った。後に、黄帝の正妃・嫘祖が、桑を植えて蚕を育て、人々に布を織って衣を作ることを教えた。それゆえ、黄帝の時代に服飾制度が次第に形成され、夏・商の後、冠服制度が次第に確立された。そして、西周時期に、周礼制度が形成され、衣冠制度に対して明確な規定がなされ、冠服制度が次第に礼治の範囲内に組み込まれていき、礼儀文化を表現する方式の一つとなった。漢服は、ここに至って日に日に完成していったのである。


 ▼漢服の繁栄と栄光

 ある聖者がかつてこう言ったことがある。「一朝の天子に一朝の朝臣、一朝の天人に一朝の民、一朝の文化、一朝の服飾」。ゆえに、中国古代の服飾は、ただ単に王朝が替わるにつれて改められただけでなく、朝代が替わることによって服飾の特点もきわめて大きく異なった。それは、それぞれがその王朝の文化を反映しただけでなく、ことなる時期の人類に付与された知恵の違いをも反映したものだったからである。

 商朝の時期には、紡織技術が十分に熟練され、服を上と下の二つに分けるようになり、それが中国衣裳制度の基本形式となった。当時、男女にかかわらず、大かたが腰に幅の広い帯を締め、襟元、袖口には細かく精巧な刺繍が施された。

 
 ▼殷商時代

周朝時期、分封制度が確立し、それにつれて冠服制度も次第に完備していった。貴賤の違いによって、冠服の等級もまた服飾の中で厳格な区別が生まれ、帝王と貴族もまた場合と身分によって、それに適した服飾を着用した。

 春秋戦国時期には、「深衣」が出現した。深衣は、上下を分けて裁ち、中間を相連なるように縫い合わせてある。深衣の用途は広範で、男女尊卑の区別なく皆が着用することができ、当時は非常に流行した。

 秦朝が中国を統一した際、各種の制度が創立され、その中に冠服制度も含まれていた。

 漢はその秦の制度を継承し、漢・武帝の時に西域との文化交流を強化してからは、さらに服飾の色彩が増加した。漢朝に流行した服飾は、上下が連なった衣服が主であり、袖口が大きく、肩から踝まである長い上衣が、当時の最も典型的な衣装の形であった。漢朝の政治は安定し、経済は繁栄し、生活が日増しに豊かになるにつれて、衣冠制度も日増しに華麗になった。漢朝貴族の礼服は、そのスカートと襟元、袖口に精巧で美しい縁取りが施されていた。

 
 ▼漢時代

魏晋の時期には戦乱が頻発し、人々は故郷を離れることを余儀なくされ、同時に複数の民族が同居する状態が現れた。そのため、胡人と漢人の文化が相互に影響するという状況が生まれた。ゆったりした衣装に広い帯というのが当時の流行の服飾であり、自然のままにゆったり感を追求した服装になった。

 
 ▼魏晋時代

隋・唐の時期になり、服飾は富貴かつ華麗な様相を呈するようになり、それは当時の政治、経済、文化、芸術が空前の繁栄を見せた時期であったということを反映していた。この時期、漂白、染色、絹織物の技術が大きく進歩し、それに加えて、シルクロードの開通と対外的な開放によって、クチャ王国(中央アジア)、吐蕃(チベット)、アラビアとペルシャなどの使者もそれぞれの地の文化をもたらした結果、唐朝時期の服飾は多民族の特色が融合され、異彩を放っていた。

 唐朝の染織技術は精巧で美しく、絹織物の染め上げたデザインは前代未聞の高水準となった。それゆえ、唐朝の服飾は材料に凝り、色彩が鮮やかで、様式もきわめて多く、飾りも優美であった。唐朝の服飾はおうようでゆったりして、華麗で雅やかであり、悠久な中国の古代服飾史上、そのピークを極めたと言われるように、燦然と光り輝いている。

 唐朝の男性は、丸襟のひとえの上衣を着用し、頭には幞頭をかぶり紗帽を載せるのが、最も典型的な装束であった。幞頭は、絹布を四角く裁ち、四つ角に垂れ房をつけたもので、髪を束ねる頭巾として用いられ、唐朝では非常に流行した。

 唐朝の女子はおしゃれが一般的となり、化粧を重視し、眉を描き、唇に紅を注し、ほお紅を塗った。服飾の特徴は、大きく開いた襟、大きい袖、スカートは腰高で、上は短いシャツあるいはひとえの服を着、下はロングスカート、袖の短い上着を加えて、絹のショールを羽織り、長いスカートを引きづるようにして歩く。その姿は軽やかで天女のように洒脱で高雅であった。

 敦煌の壁画には、大量の彩色図案がある。その中には仏国世界を描いたものがあって、仏、天人、飛天仙女などの形像があり、非常に荘厳で迫真のものだ。それらを詳細に調べてみると、唐朝の服飾と壁画中の天人らの服飾が非常に良く似ていることが分かるだろう。

 中国の伝統文化は、唐朝時期に世界各国と頻繁に交流があり、アジアの多くの国々に影響したのみならず、現在の日本の和服、韓国の韓服は今なお唐朝の服飾の特徴を残している。

 
 ▼隋唐時代

宋朝の衣冠服飾は唐代の伝統的な服制を踏襲したものの、独自の道を切り開いた。当時の社会は理学をあがめ尊んで、「天理を存し、人欲を去る」の観念を提唱し、伝統的で保守的な道徳観を唱道した。それゆえ、服飾はもはや華麗さを追求することなく、自然の質朴さを主とした。

 宋朝の男性は尊卑を分けず、諸般の場合にいずれも幞頭を載せた。但し、当時の幞頭は、帽子のような直角冠帽であった。服飾は依然として丸襟の上衣を主として、さまざまな色のひとえの服で等級を区分した。

 宋朝貴族婦女の礼服は大きい袖のシャツで、周の制度にならって、祭祀などの重要な場合には必ず礼服を着用した。しかし、一般の婦女の服飾は、上衣は短いもの、ひとえのシャツ、あわせの服、大きい袖、半袖、褙子など、様式は多様で、下はやはりスカートを穿いた。

 そのうち、褙子は、貴賤の別なく流行して着用された。これは一種の外套で、襟は垂直で対になり、丈の長さが膝を超えたところに特徴があった。

 
 ▼宋時代

明朝の樹立後、冠服制度は周、漢、唐、宋朝の服制を参照して、伝統的な漢服の制度が復活した。明朝の服飾は材料の種類が豊富で、刺繍の技術も発達していた。

 男性の服飾は、長衣が主流となり、役人の朝服は古の制度にならい、烏紗帽を被り、丸い襟のシャツ、袖は広く三尺あり、長衣の色と図案でもって官職の位を区分した。長衣の朝服の前方には四角い刺繍の図案があり、文官は鳥の図案、武官は獣の図案で、紅の長衣は1から4品の官位、青色は5から7の官位、緑色は8から9品の官位を表した。

 婦女服飾は、主にあわせの上着、ひとえのシャツ、褙子、比甲(ノースリーブの長衣)、スカートで、様式は唐宋を踏襲していた。ひとえのシャツは、深い紅色、黄色、青色は用いることができず、ただ桃色、紫、綠色だけを着用することができた。

 明朝の婦女の礼服は、鳳のティアラと霞の肩掛けであった。后妃が祭祀大典などの重要な場合に着用する服飾は、鳳のティアラに龍鳳をあしらい、霞の肩掛けと組み合わせて使用した。

 ▼漢服の特色

 漢服の最も主要な特徴は、襟を右前で交差させ、袖口が広くて長く、ボタンは紐ボタンを使う。漢服を着ることによって、その人の態度やふるまいは、落ち着きのある、おうようで垢抜けがした気質と美感をかもし出す。

 これらの特徴はその他の民族の服飾と異なるだけでなく、漢服の影響を受けて生まれた日本の和服や韓国の韓服などとも異なり、西洋の服とはさらに大きく異なる。

(08/05/18 00:41)

URL:http://jp.epochtimes.com/jp/2008/05/html/d84267.html



画像チベット文化に関する中国政府の白書を中国人ライターが批判 2009年3月3日 Phayul.com

中国のもと、チベットでは文化的大虐殺よりも残虐なことが起こっている -
中国語雑誌の編集者として、かつてチベットで活動していたカナダ在住の中国人ライターは語る。

【ダラムサラ3日】チベットでは文化的大虐殺が起こっているだけでなく、中国は、チベット人のユニークな生活様式の基盤となるデリケートな環境に取り返しのつかない多大なダメージを与えている、とカナダ在住の漢民族ライターは語る。

「中国政府は歴史ある仏教寺院を破壊し、仏教僧の生活に干渉するだけでなく、チベットのデリケートな生態系をも崩壊へと追い込んでいます。そのため、チベット人の伝統的・文化的な生活様式の根本が危険にさらされているのです」とかつて中国政府のもと、チベットで中国語雑誌の編集者として働いていたシュー・ルイ女史は述べる。

「中国が自分たちの野望を満たすための国家支援政策により、何千というチベット人遊牧民が永住用住宅へと強制移住させられました」

「チベットでの中国政府の無責任な行動は、静かながらも急速にチベット人の豊かな文化的価値を破壊しています」とシュー女史は述べる。

シュー女史は、『Response to White Paper(白書に対する意見)』と題する本を発表する記者会見の席で語った。

チベットで起こった大規模な抗議活動から数ヶ月後の2008年9月25日、中国は「チベット文化の保護と発展」と題する白書を発表した。中国は、「チベット文化の保護と発展のために中国が努力していることを世界に知らせ」、「チベットでの文化的大虐殺の責任」について否定するために白書が発行されたと主張している。

亡命中のチベット仏教最高指導者、ダライ・ラマ法王は、近年折りに触れ、チベットで文化的大虐殺が行われていることに強い懸念を表明している。

中国国家直属の通信社、新華社によると、この白書はチベットでの「文化的大虐殺」の責任は「ダライ・ラマ集団によって捏造された」偽りであると異議を唱えるものであり、「彼らが強く要求する文化的自治国家の欺まんに満ちた本質」を暴露するものであるという。

「ダライ・ラマ14世の集団は50年近くも前に国外に逃げてしまい、チベット文化の保護や発展にはまったく尽力してこなかった」と白書は述べている。

チベット女性協会(TWA)から出版されたシュー女史の本は中国語で書かれており、二部構成となっている。TWAによると、前編ではチベット文化の保存、民主主義の確立、教育制度の発展、チベット医学の復興、亡命チベット人コミュニティーにおけるチベット建築および芸術について、後半では、古典文献や注釈書を含む人間社会に対するチベットの貢献についてまとめられている。

「シュー女史の『Response to White Paper(白書に対する意見)』は本質的には、ダライ・ラマ法王や困難の中にあるチベット人すべてに対して捧げられたものなのです」ダラムサラの女性協会の会長であるB・ツェリン博士は語る。

またツェリン氏は、「著者は、すべての国の人々、特に漢民族がダライ・ラマ法王のチベット文化および世界全体に対する貢献について理解してほしいという思いで執筆したのです」とも付け加えた。

この本を、中国人ライターによる今までに例のない画期的な研究活動と説明するTWAは、本書が「チベット人に対する中国人の意識を変える指標」となるよう期待している。本には、ダライ・ラマ法王の不屈のリーダーシップのもと達成された奇跡的な出来事が詳細に述べられているとツェリン氏は語った。

中国北西部に生まれ、現在はカナダで活動するシュー・ルイ女史は、1998年から2001年までチベットに滞在し、その間、中国語の公式雑誌『Tibetan Literature』の編集者として勤務した。

チベットでは、シュー女史は著名なチベット人ライターで活動家でもあるウーセル氏と同じオフィスで仕事をした。ウーセル氏の著作物に、ダライ・ラマ法王に賛同する引用文献を含んでいることを中国当局が発見後、ウーセル氏は自らの意志で中国に亡命している。

以前はダライ・ラマ法王を「人間の皮をかぶり、人間の骨からできた皮膚をつけた悪魔」と強烈に批判していたシュー女史は最近の記事で、チベット人やダライ・ラマ法王に対する考え方はチベットを訪れ、穏やかで落ち着いた法王のイメージに出会ってから一変したと語っている。

最新作のためにダラムサラを訪れたシュー女史は、亡命チベット人コミュニティーで、チベット文化の保存や発展に対する法王の驚くべき努力を目の当たりにすると同時に、報道の自由を含む活気に満ちた民主主義がうまく機能していることに大きな感銘を受けたという。

亡命コミュニティーには、チベット本国で存続が危ぶまれている文化的アイデンティティーを保つために教育施設、寺院や教育機関が設けられているが、そういった文化的価値は実際のところ世界中に広まっているとシェー女史は述べる。

シェー女史によると、世界に向けて人間としての価値を高めようとするダライ・ラマ法王やチベット人の姿に国際社会は良い影響を受けているという。「法王に授与された数多くの国際的な賞がなによりの証拠です」とシュー女史はいう。

こういった進歩は、いわゆる白書の中で中国政府が非難している法王集団の行為とはまったく相反するものだ、とシェー女史は記者会見で述べた。

昨年、シェー女史が白書について知った時には、中国がようやくチベット文化の保存について真剣にとらえ発展のために力を注ぐのであろうと安心したという。

しかし、詳細を知るにつれ、白書の内容は例によって中国政府が自らの思惑を果たすためのプロパガンダでしかないことを気がついたという。

そこでシェー女史は、白書にマッチする意見書をタイミングよく発表したいと考えていた。そこでインドへ赴き、著名無名を問わずさまざまチベット人やインドへ到着したばかりの亡命者と交流を深めたのである。

チベットで実際に中国政府のために働いた経験と、亡命中のチベット人へのインタビューから得た答えの結果が『Response to White Paper(白書に対する意見)』なのだとシェー女史は話す。

「中国がチベットで行っていることは、白書の中のダライ・ラマ法王やチベット人難民に対する厳しい非難や名誉毀損よりもひどいこと」であるとシュー氏は確信しているという。

彼女の本は、チベットの真実を知らずにいる多くの中国人同胞に向けて書かれたと語る。

この本を出版するにあたり、インターネット上で彼女を「裏切り者」と呼ぶ多くの中国人ブロガーたちは気にならないとシェー女史はいう。

「このようなブロガーの多くは、一方的な中国共産党寄りか、チベットの現状をまったく知らない人々でしょう」

一方で、シェー女史は、チベット人が自らの文化的アイデンティティーを損なわずに持ち続け、教育分野で大きく前進することを望んでいる。困難の中で自由を勝ち取るためには教育の充実が効果的であると考えている。

「私にできることは、チベットやチベットの豊かな文化的価値についての記事を書き、中国人に理解してもらうことです」と述べる。

2008年3月にチベットで起こった蜂起後、シェー女史は「なぜチベット人は抗議するのか」、「軍隊、マシンガンと銃弾はチベット人の心を統制しない」、「ダライ・ラマ法王を招待しよう」、「中国政府へ手紙を書こう」、「チベットの希望」、「権力のある人がこの機会を逃さないように」など、インターネット上に数多くの記事を発表している。

(プルブ・ティンレイ記者)(翻訳者:パドマサマディ)

URL:http://www.tibethouse.jp/news_release/2009/090303_article.html



画像在米ウイグル協会緊急声明:カシュガル老城の破壊を即時停止せよ 在米ウイグル人協会はカシュガル旧市街(老城)の破壊を非難する。 3月24日 在米ウイグル人協会

在米ウイグル人協会(UAA)はカシュガル旧市街(老城)の伝統的ウイグル建造物の破壊を非難する、これは古来よりのかけがえのないウイグル文化の中心を根絶させようとする計画である。
中国の公式メディアの最近の報道によると、当局はカシュガル旧市街(老城)にいる6万5千のウイグル人世帯(22万人)を移転させることを目的とする「住民移住計画」を実行している。「住民移住計画」の標的は4万5千のウイグル人世帯を移住させ、カシュガル旧市街(老城)の5キロメートル平方を取り壊すことである。
2008年に全国人民代表大会国務院はこの計画に3億元近くを明示した。



東トルキスタンでは多くの伝統的ウイグルコミュニティが1949年の中国共産党支配の始まりから破壊されてきた。
この破壊の多くは大規模な社会運動の形で到来するものだった、例えば文化大革命(1966-1976)、これはウイグル文化の歴史的側面を標的とした。
特に、中国政府は全ての東トルキスタン北部のウイグルの文化中心を次々と破壊した、まずウイグル人居住者を取り除いた、そして伝統的な家屋を取り壊した、そして最後に漢族中国人の隣人に囲まれたアパートの建物に分散させて、ウイグル人をひとかたまりの人々として孤立させた。

カシュガル旧市街(老城)は数少ない残った伝統的ウイグル文化と宗教の中心の1つである、多くのウイグル人はカシュガル旧市街(老城)の保護を独立したウイグル人アイデンティティを保持するのに不可欠であると考えている。
カシュガル旧市街(老城)は8キロメートル四方の伝統的ウイグル家屋、バザール、そして築600年のエイティガールモスクのような信仰の中心を含んでいる。

中国の公式メディアでは、政府当局はこの取り壊しは旧市街(老城)住民を地震の損害を受けやすい家屋や排水の悪さから守る必要によって始められたと言明している。
しかし、UAAはこの破壊は長期にわたって続くウイグル文化及びアイデンティティを希釈する運動から分岐したものではないかと恐れる。
ここ数年、中華人民共和国政府はウイグル語を学校での指導の言語としては段階的に廃止し、強制的に若いウイグル人女性を東中国の工場で働かせる為に移送し、東トルキスタンへの漢族中国人の大規模移入を奨励する等の諸政策を監督している。

ウイグル人民主リーダーのラビア・カーディルさんは語る。

「カシュガル旧市街(老城)の破壊はウイグル人アイデンティティへの侮辱であり、ウイグル人の同化への試みであります。」

「中国当局は何の相談もなく一方的にウイグル人は自身の伝統的家屋や生計から移動するべきであると決めつけました。」

「ブルドーザーが仕事をした後に残った土地がどうなるのか発言する中国の官員は一人もいません。」

「私はこのような世界の遺産である無比の場所の損失を嘆いています。そして中国政府にこの破壊が世界からかけがえのないコミュニティを奪うことであるということを知らしめることを世界中の人々に求めます。」

ワシントンポストの3月24日付の記事で北京師範大学地理学科の呉殿廷教授は語る。「この古い街はまたウイグル人のイスラム文化を非常に反映している、変わることのない独自の様式と趣がある。」
「ここに、ウイグル文化はこれらの土造りの建物と付随している。もしこれらが取り壊されれば、付随した文化は破壊されるであろう。」

ワシントンポストは付け加えてカシュガル旧市街(老城)の100世帯が新しい高層アパート式の住居に移住したことを報道した。
ウイグル人権プロジェクトの情報筋によれば、新しい住居はカシュガル市中心から約8~9キロメートルに位置している。UAAはウイグル人が政府の計画した住居設備に移住させることはウイグル人の活動を管理、監視する手段であるということ、同様に中国政府への依存を生じせしめるものであるということを懸念している。

中国の官員王正栄は、老城の全てが取り壊しのための印を付けられている訳ではないとして、いくつかの部分が「国際的な遺産の風景の創出」の目的で「保護、管理、そして開発される」であろうし、そのことで旅行産業からの収入を増加させるであろうと言明した。
王正栄はこの計画の下旅行者は「少数民族の生活様式と建築の特徴」を見ることができると付け加える。
UAAはこのカシュガル老城の残余部分がウイグル文化の野外博物館の性格を帯びることを懸念する、そこにはかつて活力のあるコミュニティが存在していたのである。
カシュガル経済の旅行業の価値はほぼ6億2000万元である。現在のところ、誰がその中国に管理されたカシュガル旧市街(老城)の受益者になるのか指し示されていない。

漢族の国家はウイグル人であることの意味を再定義しようとし続けている。北京オリンピックの開催前とその期間中はウイグル人のアイデンティティが強調された、中国支配の下での悪化とオリンピックの為のその行程の激化である。
2008年6月に東トルキスタンの諸都市でオリンピック聖火リレーが行なわれたときに、ウイグル人の踊り手がウイグル文化の非脅威的な面と思われるものを見せる為に、そして「和諧(調和)社会」に生きることの美徳を例証する為に駆りだされた。
しかし、聖火リレーを行なう都市の大部分のウイグル人は家の中に留まるように言い渡された、一方で漢族の住民は聖火リレーコースの道に沿ってその通過を歓迎する為に並べられた。
厳重な警備体制が東トルキスタンにおける聖火リレーコースに伴なった、公安による車両検問、夥しい数の狙撃兵、住民への建物に留まって窓を締め切るようにという警告などである。

ウイグル人が単なる少数民族であるとの描写で暗示させるやり方、北京オリンピックの開会式で中華人民共和国の56の「少数民族」集団に属しているといわれた、56人の微笑む子供たちがオリンピックスタジアムにパレードで入場が行なわれた。しかしながら56人の子供は漢族中国人であった。

在米ウイグル人協会(UAA)は国際社会、特にユネスコ(国連教育文化機関)に中国政府にカシュガル旧市街(老城)の破壊を停止させるよう要請することを訴える、同様に中国政府に少数民族のアイデンティティの保護に関する国内法を遵守するように求める。

URL:http://kok2.no-blog.jp/tengri/2009/03/uaakashgardemol.html

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