サンフランシスコ平和条約と日ソ共同声明 (北方領土問題についての雑考 前編)

 
北方領土問題についての雑考を。全2回シリーズでエントリーする。

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来週5月11日から来日するロシアのプーチン首相との会談を巡って、北方領土問題の進展・解決を期待する声が上がっている。

これまでも北方領土は何度か部分的解決をするチャンスがあった。

サンフランシスコ平和条約(51年)で千島列島と南樺太を放棄、その後、1956年の日ソ共同宣言で国交回復を果たし、その宣言で、平和条約交渉の継続と条約締結後の歯舞、色丹の日本への引き渡しが明記されている。

ところが、61年に当時の池田首相が国会答弁で国後・択捉両島は日本の領土だと述べて、交渉ハードルを突然上げてしまった。当時の米国務長官ダレスが、「ソ連と二島返還で折り合うなら沖縄を返還する義務はなくなる」という圧力をかけたのがその原因のひとつだとも言われている。

91年にゴルバチョフ大統領が初来日し、四島名を列挙した日ソ共同声明を発表。ソ連崩壊後、日露は93年に四島の帰属問題を「法と正義の原則」により解決するとした東京宣言に調印。97年には橋本龍太郎首相とエリツィン大統領が「2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くす」ことで合意(クラスノヤルスク合意)。翌98年、四島の日本への帰属を確認後、当面はロシアの施政権を認めるという日本からの提案(川奈提案)があったけれど、ロシア側が拒否。

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2001年には森喜朗首相とプーチン大統領の会談で、日ソ共同宣言を「交渉の出発点」とするイルクーツク声明を出したけれど、翌02年に領土問題に関与してきた鈴木宗男衆院議員が逮捕され、その後、手詰まり状態に陥った。

プーチン首相は大統領だった04年に、日ソ共同宣言に基づく「2島返還」による解決を図ったけれど、07年に日本が拒否している。

そして昨年の2008年11月にペルーで麻生首相とメドベージェフ大統領が会談して、今年1年で集中的に議論を行うことを確認した。

こうしてみると、北方領土問題は、サンフランシスコ平和条約と日ソ共同声明に基づく「2島返還」を軸にした解決を図ろうとして、実際に1956年の日ソ共同声明時と、91年以降のソ連崩壊時の2回チャンスがあった。だけどいずれも頓挫している。

ダレスの恫喝なり、鈴木宗男議員逮捕などの事件がなければ、とっくに2島返還で解決していただろうし、今でも横槍が入らない限り、2島返還であれば解決の見込みがある。

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画像「貝殻島ロシア警備艇発砲死傷事件および北方領土について、その1」  ロシア・ウクライナ・旧ソ連圏

根室漁船に銃撃、1人死亡 ロシア警備艇が拿捕 貝殻島付近(2006/08/16 12:38 北海道新聞)
 http://www.hokkaido-np.co.jp/Php/kiji.php3?&j=0030

 根室の漁船がロシア国境警備隊に拿捕されました。
 この漁船は日本領の貝殻島付近のロシア側管轄水域で漁をしていたようです。
 ロシア国境警備隊の静止命令を聞かず、逃亡しようとしたため発砲され、漁獲した海産物を投棄しようとしていた盛田光広さんの頭部に弾があたって死亡しました。
 他の乗組員は無事。ロシア国境警備隊に拿捕されクナシル(国後)島のフルカップ(古釜布)に連行されました。

 なんともやりきれない事件です。

 この水域について語るのは非常に辛いものがあります。
 貝殻島は根室市の目と鼻の先で、地理的には根室半島の延長上の岩礁です。
 1956年の日ソ交渉でもシコタン島からハボマイ群島にかけては、北海道に付随する島であることを両国が確認しており、シコタン島とハボマイ群島は日本に返還することで合意が形成されています。(注1)

 実は、この頃日本政府はクナシル(国後)島とイトルップ(択捉)島はサンフランシスコ条約で放棄した千島列島に含まれるとしていたので、ロシアに対して返還を要求していなかったのです。(注2)
 このことは案外知られていません。

 国会では共産党などの野党が、合意が形成されたのにソ連が居座っているのは違法だと主張しました。
 これに対して政府は、返還は決まったが実施のスケジュールが決まっていないので、それまでの間ソ連の暫定的な統治を認めており、違法占領ではないと述べています。
 1956年の合意直後、日本はシコタン島、ハボマイ群島は日本領土だが返還までソ連が暫定統治していて違法ではない。またクナシル島、イトルップ島は放棄したので同じくソ連統治も違法ではない。そう言う態度をとっていたのです。(注3)

 ところが時のアメリカ国務長官ダレスの恫喝にあった日本政府は対ソ方針を変更します。(注4)
 1961年になって池田首相(当時)が国会答弁でクナシル島とイトルップ島は日本の領土だと述べたのです。
 実は1956年の日ソ合意を反故にしたのは日本の方なのです。
 これは同時に旧島民の返還運動も裏切るものでした。旧島民の返還運動は確かに北方「四島」の返還を求めてましたが、ウルップ島以北の生活や利権の回復も求めており、千島列島全域の返還に期待を寄せていました。
 しかし、政府は下田条約を根拠としてイトルップ島以南のみの返還を主張することとし、1956年のソ連との合意、旧島民の期待、両方を裏切ってアメリカの覚書に従う道を選んだのです。
 その結果、日ソ交渉は50年も暗礁に乗り上げてしまいました。

 1990年代後半、日本は橋本・小渕・森と三代にわたってロシア重視の政権が続きました。またソ連邦は崩壊してロシアも日本に接近して経済危機を脱したいと言う思いもありました。
 本来ならこの時代に両者は歩み寄り出来たはずなのです。日本はイトルップ島ーウルップ島の間の国境さえ確認できれば、北方四島をそのままロシアが統治して良いと言うところまで妥協していました。(川奈合意1998年)
 2000年にロシアでプーチン政権が成立すると、日ソ共同宣言の重視を公言するようになり、シコタン島とハボマイ群島の日本への返還はロシアの法的義務だとテレビで国民にアピールするまでになりました。
 これには、日本側からの現地旧島民団体や鈴木宗男議員などの働きかけが大きく影響していたと言われています。

 ところが、2001年、小泉首相が就任すると日ロ首脳の信頼関係は一気に冷え込んでしまいます。二島先行返還論の先方だった鈴木議員も失脚してしまいました。
 日本は1956年の米国覚書に拘って四島一括返還以外の交渉を拒否する態度を示し続けました。
 ロシアは2005年の2月まで2島返還の申し出を繰り返しましたが、昨年のプーチン来日を最後に南千島の独自開発を決意したようです。
(注5)
 このような動きに対して、根室の旧島民団体は日本政府への不信を隠さなくなり、今年になって二島先行返還で合意すること、領土交渉とは無関係に南千島ー根室間の開発に着手することを求めることに方針転換しました。(注6)

 旧島民の方々は既に高齢で、北方領土が返還されても故郷に帰ると答えている方は極少数になりました。
 また、政府間合意によるビザなし交流で、旧島民と新島民の間に友情が芽生え、強硬な返還要求は影を潜めています。
 旧島民2世・3世の本音は新・旧両島民の共存であり、国境の止揚に集まっています。ところがこれが本土の返還運動や政府の公式見解とあまりにも隔たっていて、うまく汲んでもらえない状態です。(中公新書「北方領土問題―4でも0でも、2でもなく」岩下明裕著)
 スラブ研究センターの調査によると、旧島民の反ロシア感情は旧シコタン島住民に集中しているそうです。
 イトルップ(択捉)島出身者には案外反ロシア感情は少なく、クナシル(国後)島では現在のロシア国民新島民が日本統治を受け入れる覚悟を決めていると伝えられています。
 シコタン島出身者にはわだかまりがあるようですが、新旧島民の共存の下地はそれなりに出来ているのです。

 今回の事件は、このような日ロ両政府・ロシア側現地治安機関・日本側漁業者(おそらく旧島民関係者)のすれ違いを遠因とするものです。
 もし、アメリカの干渉に惑わされず1956年の合意に従っていれば、エリツィンの側近たちが川奈合意を受け入れていれば、プーチンの返還の申し出を受け入れていれば、今回の事件が起きることはなかったのです。

 おそらく東京の大手マスコミは、このような経緯と背景を解説しないで事件を報道するでしょう。
 そして、あとはお決まりの煽動です。

URL:http://gold.ap.teacup.com/vodka/69.html



画像どうか、二島での折り合いを

 北方領土について、私は二島返還が最も現実的であり、望ましいと考えているが、一応その論拠らしきものを述べておく。

 第二次大戦で我が国はフルボッコにされた訳だが、その過程で、ソ連軍が千島・樺太に侵攻した(正確に言えば終戦後だが、それをもってソ連を責めるのなら、抵抗せずともいいのに抵抗して無駄な死者を出した日本軍を賛美する資格はないよね、常識的に考えて)。そしてそのまま同地域にはソ連と、継承国家ロシア連邦の主権が及んで現在に至っている(小泉政権時代、ユジノ=サハリンスクに領事館が設置され、日本は実質的にサハリンにおけるロシアの主権を承認した)。

 ちなみに、占守島のお陰で北海道分割は免れただの何だのと言う人がいるけど、ボリス・スラヴィンスキー『千島占領――一九四五年夏』共同通信社、1993によると、そもそも北海道北部及び択捉島以南に派遣されたのと得撫島以北の千島占領に向かったのは別の部隊。よって、占守島の勇戦は、非常に残酷な事だが、北海道分割を阻止した訳ではなかった(むしろ我々は、「何故彼らは戦ったのか?」を問うべきなのだろう)。

 そういう枝葉の先は取り敢えずおいておいて、そもそも戦後一貫して我が国が「四島返還」の方針を堅持してきたのかというとそうじゃない。例えば、平和条約当時、国会で「放棄した『千島』には択捉・国後が含まれる」旨の答弁がなされている(後に変更したが)。

 何故日本政府が方針を変え「四島返還」を言うようになったからというと、「ダレスの恫喝」があったから。つまり、当時の米国務長官ダレスが、「ソ連と二島返還で折り合うなら沖縄を返還する義務はなくなる」という圧力をかけたのが、我が国の態度硬化の原因の一つであって、それ以前は「二島」で折り合おうという論調もあったのだ(今もあるが、言うと売国奴扱い)。

 勿論冷戦中の事であるし、国家は自分の国益を第一に考えて動くものであるから、米国を責めようなんてつもりは微塵もないが、我々が冷戦中の反共政策の亡霊にいつまでも囚われている必要なんてないんじゃないか。サン・フランシスコ平和条約を読み返そう。「千島を放棄」とバッチリ書いてある。歯舞・色丹は北海道の属島だから千島には入らないとしても、国後まではどう考えたって千島だ。我々はそれを放棄したのだという事を思い返すべきじゃないのだろうか。

 我々の世代に負債を残さないでくれ。我々にはそう要求する権利があると思う。いつまでも反共主義の亡霊に囚われ、法理と現実をねじ曲げ続けて、それに何の意味があるのか。そこを問い直す必要がある。

 ああ、この件に関して、南樺太や千島まで云々という意見を見かけるが、論外でしかない。そういう議論がロシアに無駄な警戒心を抱かせているんだ(共産党のように)。そういう主張をする人間こそが国益を損なっていると言いたい。

(※この文章は、以前に別所で公開したものを再掲したものです)

URL:http://mukke1221.exblog.jp/7353496/

この記事へのコメント

  • nisimukusamurai

    ※前ページ目に「49カ国」という語が3ヵ所ありますが、3ヵ所とも「48カ国」のあやまりです。訂正させていただきます。

    ロシアとの間の国境画定問題について(2)

    そして、当時ソ連と対立しているアメリカがこれまた、「ソ連と二島返還で折り合うなら沖縄を返還する義務はなくなる」という行動に出るのは、当たり前のことなのではないでしょうか(沖縄を返還せずアメリカ領とすることはサ条約第3条違反)。
    つまり、日本によるサ条約第25条違反に対してアメリカもまたサ条約第3条違反で対抗したのです。日本は日本の国益で、アメリカはアメリカの国益で動いたのです。当たり前のことです。しかし、日本はサ条約に違反しながら国益を優先しようとしました。だから、よくなかったのだと思います。
    あの時、二島返還のみでソ連と問題の決着を図ろうとしたのか、全く理解できません。日本はサ条約であの二島を放棄してはいません。よって、日本はソ連に対して無条件即時の返還を求めるべきでした。それをなぜ日本は二島の返還をソ連との平和条約締結交渉の材料として用いたのか全く理解できません。無条件でなされるべき歯舞、色丹の返還に平和条約締結後になど
    2015年08月10日 16:51

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