日本を浄化する「フレッシュプリキュア」

 
「ピンクのハートは愛あるしるし。もぎたてフレッシュ、キュアピーチ!」
「ブルーのハートは希望のしるし。つみたてフレッシュ、キュアベリー!」
「イエローハートは祈りのしるし。とれたてフレッシュ、キュアパイン!」

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2004年からスタートした、アニメ「プリキュアシリーズ」は女の子たちの間で旋風を巻き起こし、今年の「フレッシュ プリキュア」で6作目を迎える。

見た目は普通の子供向け人気アニメなのだけれど、主人公のヒロインたちのセリフと必殺技がとても興味深い。

それは、必殺技の前に柏手を打つことと、その後に続く決め台詞が「悪いの悪いの飛んで行け」であるところ。

これは、日本神道のお祓いと殆ど同じ。

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もともと柏手には、穢れを祓ったり「魂振(たまふり)」といって、手を叩く音で神様を招いたりする意味がある。

「魏志倭人伝」には、”大人の敬する所を見れば、ただ手を摶ち以て跪拝に当つ。”という記述があり、身分の高い人に対しては柏手を打って跪くことで敬意を表していた。

そういう意味で見てみれば、フレッシュプリキュアの必殺技は、柏手を打って穢れを祓い、そして「悪いの悪いの飛んで行け」と悪しきものを払う言霊を発するという、実に日本神道的なものになっているといえる。

今の日本の世相を見ると、戦後60年たって安全保障を含めて、色々と社会の軋みが明らかになってきている。北朝鮮の拉致問題を機縁として、他国からの工作活動が明らかになり、それに対する反発から、朝鮮総連への強制捜査などがされて、これまで闇に隠れていた世の中の悪しきものが表に出てくるようになった。

これは、ある意味、日本国内の穢れを払っているとは言えまいか。

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フレッシュプリキュアの制作スタッフが意識してそうしているかどうかは分らないけれど、今の時期にこうしたヒロインを出してくるのは、とても象徴的に見える。

もしも、フレッシュプリキュアが日本の浄化を象徴しているとするならば、それはプリキュア達の変身時のセリフにある「愛」と「希望」と「祈り」によってなされるのだろう。

面白いと思うのは、「愛」と「希望」はヒーロー、ヒロインものなら良く使われる言葉だけれど、最後のひとつに「祈り」が入っているところ。これまであまり使われなかった言葉。

この祈りという言葉が入ることで、日本の浄化が、天の八百万の神々と地の人々との共同作業になっているのではないかとさえ。

もしも本当に日の本から邪悪なる者たちが駆逐されているとするならば、日本の未来は明るい。



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画像ことばのお洒落 お洒落なことば Vol.04 拍手と柏手 監修:篝火舎心亭 文:寿々乃舎於火女

篝火舎心亭宗匠のうんちく話、今回のテーマは「拍手と柏手」です。

明治30年ごろの劇評に、「最近、いい役者が引っ込む時にお客が手を叩(たた)くようになった。国際的にも一人前になってきた」と書いてある。拍手することが国際的だっていうんですね。

つまり、当時、拍手しないと国際的ではない、文明開化ではないわけで、江戸時代はむやみに手を叩かなかったことがわかります。亡くなった歌舞伎役者の七世尾上梅幸が書いた本に「拍手は幕が下りてから」という、そのものずばりのタイトルがありまして、拍手をいやがった役者もいたようです。現に、2、30年前までの歌舞伎では、拍手よりも「かけ声」のほうが主流だったんじゃないでしょうか。

「能」ではいまでも、演者がすべて退場した後で、四拍子とよばれる太鼓、大鼓、小鼓、笛が、橋がかり、つまり舞台から退場する通路に入ってから、やっと儀礼的な拍手が起きます。この拍手も、ひと昔前までは、まったくなかったように思うのです。

歌舞伎では「じわ」といいますが、客席に、感嘆、感動がじわじわと広がっていくのが役者にはわかるんですね。それで「じわ」と呼ばれている。この「じわ」が来るのは、役者冥利(みょうり)につきるわけです。

最近は歌舞伎でも、人が出入りするたびに手を叩くでしょう。じゃまだと思うけれど、しようがないですね。

たとえば大薩摩節の演奏のなかで、三味線方の腕の冴(さ)えを聞かせる「からくさ」という演奏テクニックがあるんですが、ここで撥(ばち)さばきの見事さに客席から拍手が起きます。最近、その拍手の始まるのがだんだん早くなり、肝心の聞きどころは拍手のために何も聞こえない。せっかく喝采(かっさい)をおくるのなら、山場を待って待って、もう「ここまで」という、一段らくに拍手すべきでしょう。

日本人にとって「手を打つ」ということの意味はいくつかあります。

一つは、デモンストレーションというか、人を呼んだり、現にここにいる、ということを知らせたりするときに手を叩きますね。

もう一つは、神前の柏手(かしわで)や土俵入りの柏手。これは、手を叩くことで、悪霊を払ったり、これから結界に入ることのあらたまりを意味する。

一本締め、三本締めのような、仲間としての確認、ケジメの意味もありますね。この場合、ケジメというのは「晴」に対しての「褻(け)」締めじゃないか、と密かに思っているんですが、どうでしょう。

それから、明治の劇評家が「国際的」といった、感動、賞賛の意味の拍手。そして、もちろん、宴会で歌にあわせて拍子をとったりする拍手もあります。

とくに調べたわけじゃありませんが、宗教的儀式で手を打つ習慣があるのは、どうも日本だけの珍しい習慣ではないでしょうか。

古文書類を集めた「古事類苑(こじるいえん)」の神祇(じんぎ)部には、千年前からの神拝礼式の定めがのっているんですが、二拍手、四拍手、八拍手と、二の倍数が昔からの基本になっている。ことにこの「八拍手」のことを「八開手(やつひらで)」といって、これを四度び繰り返すのが最上級の拝礼なんだそうです。合計三十二拍手、伊勢神宮の神官の正式の拝礼は、いまもこの古式を守っているといいますね。そういえば、出雲神社は四拍手です。

ちなみに、一本締め、三本締めなどを「手締め」といいますが、もともとは「手打ち」といっていたようです。江戸は武家社会ですから、これが「手討ち」に音が通うのを嫌って、「手締め」というようになったらしい。

「柏手」は「拍手」を間違えてよんだのが始まりですってね。すっかり定着して、拍手とは別物になっていますが、ことばの世界には面白いことが起きるものです。

(更新日:2006年12月13日)

URL:http://doraku.asahi.com/kiwameru/word/column_061213.html



画像神社ではなぜ柏手を打つか

歴史の時間に誰もが習った「魏志倭人伝」には、偉い人に会ったときは手を打つ、という意味の記述がある。いわば現代の握手のようなもので、魂振(たまふり)といって、手を叩く音で神様を招き、お互いを祝福するという意味があった。神社で柏手を打つのもここからきた風習で、神様を招くために手を打って音を立てているのである。 以前友人の岳父が亡くなり、神道で葬儀を行った際、初めてしのび拍手で礼拝することを知った。あれ以来神社に参拝するたび拍手の由来を知りたかった。

URL:http://norioki.exblog.jp/4076725/


画像「魏志倭人伝」

その俗挙事行来に、云為する所あれば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。その辞は令亀の法の如く、火タクを観て兆を占う。 その会同・坐起には、父子男女別なし。人性酒を嗜む。大人の敬する所を見れば、ただ手を摶ち以て跪拝に当つ。その人寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年。その俗、国の大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦。婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、諍訟少なし。その法を犯すや、軽き者はその妻子を没し、重き者はその門戸および宗族を没す。尊卑各々差序あり、相臣服するに足る。租賦を収む、邸閣あり、國國市あり。有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。

URL:http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html

この記事へのコメント

  • 永江聡

    フレシュプリキュア
    2015年08月10日 16:51

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