一門の力(政治家の世襲問題について考える その7)
政治家は国民の代表であるべきか、それともプロの実力を持つ政治家であるべきか。勿論両方共に備えていることが理想だし、そうでなくちゃいけない。
国民の代表だけれども、政治の素人であったら、官僚のなすがままにされてしまう危険があるし、政治のプロだけれど、国民の代表という意識がなかったら、利権を欲しいままにすることだってある。
それを、食い止めるために選挙というものがあるというのはそのとおりなのだけれど、選挙で素人か、国民を代表しない議員しか選べないのであれば、何百回選挙をしたところで、国民が迷惑を被るばかりでちっとも良くならない。
民主主義という仕組みのなかで、如何に国民の代表かつプロの政治家を選んでいくかという命題は常に国民に突き付けられている。
だから、政治家を政治家として訓練する機関や実践の場はどうしても必要になってくる。さもないと、とりあえずタレント候補を立てて当選させて、あとは有力政治家や官僚の操られるがままなんてことだって十分あり得る。
世の中には、当然政治家を養成する機関はある。松下政経塾なんかは有名どころだけれど、それ以外にも例えば党が運営する自由民主党中央政治大学院だとか、都連が設置するTOKYO自民党政経塾などがある。中には小林興起政治経済塾などのように個人議員が開いている政治経済塾なんてのもある。
さしずめ、これなんかは師匠が弟子に稽古をつけるように、政治家としての力をつける養成機関。他にも地方議員からスタートして知事、国会議員などに転進していくケースもある。こちらはストリートライブから有名になってメジャーになる道にあたるだろうか。
こうやって、実際に政治家になってゆく経路を見てみると、その背後には、弟子の面倒を見てくれる師匠であるとか、バックアップしてくれる一門であるとか、そういった縦の関係が強固に出来上がる傾向が見てとれる。それは、派閥形成要因のひとつでもある。
その反面、そうした縦の関係の中で育ち、党公認を受けたり師匠の応援を受けるような候補は、その政治手腕、所謂「芸」の力を一門が保証していることになって、有権者にはそれなりのプロであるとアピールできる。
勿論、最初からどでかい「看板」を背負っているタレント候補はその限りじゃない。だけどタレント候補であっても、一旦当選してからあと大過なく議員が勤まっているのであれば、それは誰かの操り人形と化しているか、師匠筋、一門の教育が行き届いていて、それなりの政治家として育っているということなのだろう。
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