「いよいよ、九代正蔵を襲名いたしました。これもひとえに、長く温かい目で見守っていただいた皆様のご声援のおかげと、心より感謝しております。江戸より続く名跡を立派に継ぎ、七代目の祖父をはじめ歴代の正蔵の名に恥じぬよう、これからも精進していく所存であります。どうぞ末長く、ご贔屓のほどお願い申し上げます。」2005年吉日 林家正蔵
政治家が自分の地盤を息子・娘に継がせるときに、後援会や支援者達にそう伝えて継いだ子供を紹介するけれど、これって、歌舞伎や落語なんかの襲名披露となんら変わらない。
歌舞伎や落語の世界では、世襲なんて掃いて捨てるほどいる。落語家の子供が落語家になっても誰も不思議に思わない。何故、歌舞伎役者や落語家の世襲は問題なくて、政治家の世襲が問題とされるのか。
マスコミは、政治家の世襲は新人の登場を妨げるからだと批難する。確かに新人が政界にどれくらい進出できるかどうかで、世襲制の是非を問われる面はある。
多少強引な例えだけれど、政治家を落語家に置き換えてみると件(くだん)の三バンは次のように置き換えられるだろう。
地盤・・・師匠・一門
看板・・・屋号・噺家名(三遊亭なになにとか、桂何某とか。)
鞄 ・・・寄席・定席
そして政治家としての能力は次のように置き換えられよう。
政治手腕 ・・・芸の力量
得意分野 ・・・芸風
そして選挙で当選することを真打ちになることだと置き換えてみると、新人が代議士になる道は相当に険しいことが分かる。
真打ちになるためには、芸の力(政治手腕)があることは勿論なのだけれど、寄席や定席で何席も打って御客さんに認めてもらわないといけない(政治実績)。そうした実績を示した上で、一門から認められて推薦(党公認)されないといけない。
だから、弟子入りして、芸を磨いて、寄席に出て研鑽を積む。それを続けてようやく真打ちが見えてくる。
そんなとき、落語家の息子だったらどうかというと、その噺家を知るお客さんは、ああ、あの噺家の息子かという目で見る。一門も跡をつぐのだろうとなんとなく思っているし、幼いころから寄席にも顔を出すような環境で育つ。親の七光りがある。スタートからアドバンテージがあることだけは確か。だけど、落語界は別に噺家の息子でなくても、実力さえあれば、真打ちになれる。それは、芸を磨く環境がちゃんとあるから。政治家と落語家の一番の環境の違いはここ。
三バンが全くない新人を落語家に例えてみると、まず、何処かの師匠や一門に入門(入党)するまではいいのだけれど、ここからが違う。まず看板がないから、誰も知らない前座名から始まる(尤も、噺家の子供であってもスタートは前座名になる)。地盤がないから師匠に稽古をつけて貰えない。鞄がないから寄席にも出られない。これでどうやって真打ちになれというのか。
独学で芸を磨いて、自分で営業して席をもうけたり、ストリート落語でもやって、少しづつファンを増やしていくしかない。よほどの才能に恵まれないかぎり、真を打つまで物凄く時間がかかる。
だからといって、世襲を禁止したり、制限したところで問題の根本解決にはならない。世襲新人は党公認を受けられないだとか、親類縁者からの資産を受け継いではいけないだとかいうのは、地盤や鞄を剥ぎ取る事と同義。誰であろうと、問答無用で前座に突き落としてドサ回りをさせるようなもの。
本来は、誰が弟子入りしても、自らの芸を多くの人に見てもらって、あの噺家ならば将来真を打てるだろうと、お客さんに認めてもらう仕組みをどうやって作っていくかを考えるべきであって、どんなに才能があっても簡単に真打ちにさせないやり方は、かえって才能の芽を摘むことだってある。民主主義的考えからは、多少逆行してる。
一門から破門して、ストリート落語をやって修行してこいと突き放すのは、芸の肥やしにはなるかもしれないけれど、そうであれば、普段からストリート落語をやらせておいて、芸を磨かせておくべき。選挙になったからさぁやってこいというのは少し違う。
それに、いくら地盤と看板を剥ぎ取ったところで、親の七光りまで剥ぎ取れない。民主党の鳩山代表が北海道から立候補したところで、鳩山邦夫氏が福岡から立候補したところで、世間は鳩山ファミリーだと見る。看板は下ろさせて貰えない。
ただの冗談だけれど、政治家も、噺家の襲名披露ようにかつての大政治家の名を名乗ることで一気に認知してもらうことだって理屈としては可能。三代目大久保利通とか、二代目西郷隆盛とか名乗って立候補すれば「看板」の問題は解決する。尤も本人の実力が伴わずに、イエスとか秀吉とか過去の偉人の名を名乗ったところで相手にされないのが普通なのだけれど。


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