徳治主義と民主主義の隙間(政治家の世襲問題について考える その5)


「鼓腹撃壌」はその前提として、仕事があり、住処があり、食糧が行き届いていなければ、成立しない。戦後の高度経済成長がそれに大きく貢献したことは否定しない。

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そもそも民主主義とは、自分の国のことは国民皆で話し合って決めようという制度だから、お上から何々はご禁制である、という具合に問答無用で規制されることはない。原則論としてそう。ゆえに国民ひとりひとりの能力が最大限に発揮されることになって、国力が増大しやすいのが民主主義の強み。その増大の程度は国民の数だけ足し算されてゆくから、専制政治なんかよりうんと大きい。

だけど、高度経済成長を振り返ってみると、今でこそ何かと問題視されている政財官のトライアングルがその核となっていた。これによって経済成長が強力に推進されていったことは事実。そしてそれがあまりにも巧く行き過ぎたことが逆に仇となった。

どういうことかというと、日本の戦後復興からの発展は、国民ひとりひとりが政治に対してコストを掛けることなく、ましてやコストが掛かることを殊更に意識することなく行なわれ、しかも成功してしまったということを意味するから。

仮に、政財官のトライアングルを"天子"だと見立てれば、戦後日本は民主制を敷いていながら、実際に行なってきたのは徳治政治であり、なおかつその理想である「鼓腹撃壌」社会を実現したことに当てはまる。

民主主義においては、政治にコストがかかるということを国民が意識していない。ここに今の問題がある。

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徳治主義はその政策決定において、少数の"天子"によって決定されるからコストはそれほどかからない。それに対して民主主義は民の意見を全部聞いて、取り纏めないといけないから、民の数だけコストがかかる。

だけど、徳治主義は"天子"に全てを任せて、それでうまくいくという政体だから、それが逆に、国民ひとりひとりが政治にコストを払うという民主主義の基本を忘れさせる。

日本の政治家は、当然日本人のための政治をしてくれる筈だという「徳」を信じる全うな国民ほど、民主主義のコストを払わない。自分から何もしなくてもうまくやってくれると思っているから、そんなコストを支払う訳がない。

だけど、それは自分達に都合のよい政治をさせようと思う輩(やから)が、意識して民主主義のコストを支払うことで、恣意的な政治をさせることができてしまうという危険をも同時に孕んでる。

建前や制度として民主主義であっても、国民の意識が徳治主義のままであると、その隙間を狙われてしまう。今の日本で一番注意すべき点はここ。

よく政治不信だなんだといわれるけれど、民主主義がきちんと機能している限り、不信など在り得ない。自分達で選んだ政治家を信じられないということは、即ち自分自身が信じられないということになる。だから日本で政治不信というのは、徳治政治をしている筈の政治家がそのように見えないから信じられないということであって、政治に不信ではなくて、政治家の「徳」に対して不信を抱いているということ。

徳治国家から徳が失われたら、目も当てられない。民が悲惨な目にあう。

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この記事へのコメント

  • Mr.M

    徳治主義は民主主義と対比してとらえるものでなく、武力や法で国民を統治するものと対比されるものだと思います。民主主義の下でも徳の具わった人が武力や法律だけでなく、権力に携わる人の徳をもって行われなければ、ことは成らない。
    2015年08月10日 16:50

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