長期ビジョンこそが国家戦略であるべき(政策と国家戦略について 最終回)
では、政治における戦略とは何であるか。
それは、やはり、国家としてのビジョン、国のあり方、日本としてのあるべき姿だと思うのですね。その時々の政権にどの党がついているかなんていうのは、国家ビジョンさえ明確であれば、戦術レベルでの選択にしか過ぎないと思うわけです。
そのビジョンが、民主党にないのは明白なのですが、ある意味これは、自民党にも言えることなのです。
確かに、麻生総理は「未来開拓戦略」を打ち出しています。その戦略は、2020年に向けて、環境など3分野への集中投資して、国内総生産(GDP)を、現在より120兆円押し上げ、400万人の雇用を創出する、というもので、それはそれで素晴らしいものだとは思います。
しかしながら、私には、その射程が少し短すぎるように思えるのです。
2020年といえば、10年立てばやって来ます。昨今は、1年で総理がころころ代わる短命政権が続いていますから、10年は長いように見えるかもしれませんけれども、国の舵を切って、その方向に進むまではやはり5年や10年は必要だと思います。
小泉政権は5年半ありましたけれども、その是非は兎も角として、小泉改革という方向に、日本が実際に向かって、それが、国民の誰もが自覚するようになったのは、ここ1~2年の話です。
そして、地方の疲弊や、昨今のかんぽの宿問題などのように、小泉改革路線の是非が、今になって問われているわけです。
単に、小泉改革で皆苦しむことになった、だから小泉路線を転換して、元のように多少は国が保護するのだ、という具合に舵を戻したとしましょう。そうして、5年10年かけてそれに戻したとします。
しかし、そこには、その10年後の世界にマッチしているものなのか、その環境に対応できるものかどうかの見極めがなければならない。折角、10年かけて元に戻したのに、その時の世界が、また経済成長路線に乗っていたとしたら、日本は取り残されるわけです。周回遅れのランナーのように。
ですから、確固たる戦略があった上での戦術レベル、いわゆる小さなところでの路線変更であれば、別にどうということはありませんけれども、戦略なき政策は、海図もなしに航海にでるようなもので、何処に向かえばいいかも分からず、時間だけを食いつぶすことになります。
ですから、国家戦略を考える上では、10年単位ではなくて、50年、100年、いやそれ以上の、長期に渡るビジョンがあった上での舵取りであるのか、そうでないのか。つまり国としての構想力が問われるわけです。
もし、そうしたビジョンも無しに、今が苦しいから、といって舵を右へ左へと、その場その場で切っていたとしたら、結局は同じところをぐるぐると回り続けることにもなりかねません。それほど国家運営というものは難しいものなのだと思います。見えない未来を見通さねばならないのですから。
これまでの自民党が、いろんな政治信条をもつ議員を抱えつつ、その時々の状況に合わせて舵を切ってきたように見えながら、日本が国家としてここまで繁栄したのは、まぁ、アメリカを手本として、あのような国になろう、というビジョンがあったからだと思うのです。けれども、これからもそれでいいのか、という問題があるわけです。
たとえば、未来開拓戦略の一つの柱に「低炭素革命」というものがあります。オバマ大統領の「グリーン・ニューディール政策」ともリンクしている戦略です。
この「低炭素革命」はCO2の排出を抑えた産業構造に転換しようというものです。しかし100年という単位でみた場合、100年後も温暖化が進んでいますか、と問われれば、やはり分からないというのが正直なところではないでしょうか。学者によっては、温暖化ではなくて、寒冷化に向かうという人もいます。
本当は、「低炭素革命」も、そうしたことを踏まえたうえでの革命でなくてはならず、結局のところ、未来をどう設計してゆくのかにかかっているように思うのです。
麻生総理の未来開拓戦略ですら、射程が短いとなったら、民主党の未来戦略はどうなるのでしょうか。まさか友愛社会が未来戦略だとは言い出しますまい。
今回の選挙をマスコミは、麻生太郎vs鳩山由紀夫の対決だと囃し立てますけれど、そうではなくて、争点は、小泉改革の是非であるべきだ、との論調も一部には見受けられます。
しかしながら、更に長距離な視点から眺めるならば、60年前に、日本が国家戦略、国家ビジョンとして、アメリカのような国を目指して、それを着々と実現していった事実があり、そして小泉改革を通じて、ようやく、その最後の仕上げをしたのだ、という見方だってできるわけです。
ですから、小泉改革の是非を問うということは、アメリカのような国を国家ビジョンとしていって、漸くそれが完成に近づいたのだけれども、すこし日本に馴染まないようだから修正しようか、という程度のものにしかすぎず、本当の争点はそこではないように思えるのです。
もっとはっきり言えば、これから先、100年に渡っての、新しい国家ビジョンを構築すべき時を迎えているのではないかと思うのですね。
即ち、日本が手本としてきたアメリカに、社会主義的な統制が強まってきていますけれども、その状況で、日本が今後100年を見据えても、アメリカを手本とするのかどうか、ということなのです。
もし、アメリカがこのまま社会主義国化してゆくようなことがあれば、それを手本にした先にあるものは、容易に想像がつくでしょう。
今、日本は未来に向けての重要な岐路にいるのです。
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