総選挙まであと僅か。政権交代と叫ぶ党。責任力を訴える党。それぞれが、それぞれの思いを主張している。
中には、ネガティブキャンペーンは日本人に合わないとか、それが却って支持を落としているんだ、という声もあるけれど、ひとつ気付いたことがある。
それは、投票者がその投票行為を、何のために、誰のために行うか、という観点で見たときに、そこに明確な差が表れてくるのではないか、ということ。
選挙において、一体、何のために、誰のために、投票をするのか、と改めて問いかけられた場合、どう答えるだろうか。
自分のため?
愛する家族や友人を守るため?
地域、会社、それとも、国を守るため?
だけど、その誰という範囲が、広ければ広いほど、その責任も大きくなる。
誰のために、何のために、が、自分のためだけだと、そこに責任は要らない。望みどうりの政治がされてもされなくても、自分ひとりが間違ったと、我慢すればいいだけだから。
だけど、自分だけじゃなくて、自分が守るべき人が、そこに居るのなら、その人を守るために、その人のための投票になる。そして、その人に対する責任が生まれてくる。
自分のためだけでは、済まなくなったとき、もはや安易な選択は出来ない。それだけの責任があるから。
自分のためだけの投票は、自分の欲望だけあればいいけれど、誰かのための投票は、私心(わたくしごころ)だけでは出来ないもの。
もし、私欲だらけの人がいたとして、そこから票を貰おうと思ったら、脅してやるか、その人が欲しがる餌をぶら下げてやればいい。たったそれだけで、簡単に票を釣り上げることができる。
だけど、命も、名も、地位も、金も要らない有権者には、そんなものは、まったく役に立たない。
そうした、無私の人は、マニフェストに書いてあることだけじゃなくて、その奥にある意図まで見抜くことができる。
この政策を実行することで、本当に愛するひとを守れるのか、本当に愛する国を守れるのか、それだけを考えて、直き心で見つめるから。
無私の人が選ぶマニフェストは、無私なるマニフェスト。
一時の人気取りや、政権奪取のためだけに、「ああします」とか「こうします」といった甘い言葉で化粧した、慾望を煽る公約には、決して騙されない。
今回の選挙では、「責任力」を訴える政党がある。
それに対して、お前が言うな、とか、これまで散々国民を苦しめておいて、何を今更寝ぼけたことを言っているんだ、という声もある。
だけど、その真意は、有権者に、自分達の責任力を訴えかけていながら、実は国民ひとりひとりに、「責任ある選択」を求めているのではないかとさえ。
今回の衆院選は、政権選択選挙だとマスコミは言うけれど、その本質は、わたしたちが、日の本の国に、なにができるのか、なんの責任を負うのかを問うているのではないか。
確かに、自分のためだけに行う投票と、愛する誰かを守るための投票とでは、マニフェストの読み方は全然違ってくるだろうことは疑いない。
政権選択、政策選択選挙のようにみえて、実は、国民一人一人に対して、その姿勢の選択を、逆に試されているのが、今度の選挙ではないのか。
自分の愛する誰かの為に、選ぶ。
自分の守りたい何かの為に、選択する。
無私なる心で選ぶとき、その集まりが国益となる。
命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。 この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。西郷隆盛

この記事へのコメント
事後のご連絡
とてもすばらしい文章でしたので、全文そのまま掲載させていただきました。
早急にみなさまへお伝えいたしたく、事後の連絡となったことをお許しください。
なおご迷惑であるならば早急に削除いたしますのでご連絡いただければ幸いです。
誠に自分勝手なご連絡ですが、どうぞお許しください。
http://ameblo.jp/promiseshine/entry-10327632383.html
日比野
引用の件、全然構いませんよ。
よろしくお願いいたします。
paka
麻生さん、演説や討論で、何度も言われてますね。
投票って、とっても大事なことなんだよ(それだけ責任のある行為なんだよ)って・・・・麻生さんが意図されているのかどうか分かりませんが、それを聞いた時には、私は覚悟を迫られてるような気がしました。