経済大国の責任(政治と宗教について考える 最終回)
政府が弾圧などの強権を発動しなくても、信教の自由、表現の自由に制約を課すことは簡単にできる。宗教法人税や電波利用料を引き上げてしまえばいい。
宗教法人を含む公益法人は、一般事業が利益を獲得する活動とは異なるという趣旨から、収益事業にのみ課税し、その税率も、一般事業の税率より低く設定されている。また、電波利用料に関しても、2007年時点の調査だけど、電波使用料収入総額に対して、テレビ局の占める割合が僅か1%強しかないことから、安すぎるのではないか、と非難の声も上がってる。
確かに、普通の企業と比べて随分優遇されている。もしこれが、普通の企業並みに引き上げたら、相当数の宗教団体が無くなるだろうし、放送局もいくつか姿を消すだろう。税金を普通の企業並みにする、ということは、普通の企業並みの利益を出さないと、教団や放送局を維持できなくなるということを意味する。
そうなると、必然的に「布施や浄財を沢山集めることができる」宗教や「人気があって、視聴率の取れる番組」だけを流す放送局しか残らなくなってしまう。
だけど、お金を沢山集められる宗教や、視聴率だけあるテレビ局が、いつも「正しい」とは限らない。
「正しい」考えや優れた見識は、「価値」を生む。
正しい考えに基づいた企業活動は、その社会のトレンドや正義に合致しているから、安定した利益を生みだすし、優れた見識を取り入れた政治は、道を誤ることがない。
もちろん、その「正しさ」自体は、時代によって変遷するから、今、利益を生んでいても、未来永劫それで利益が得られるとは限らない。企業経営者が口を酸っぱくして、イノベーションと言い続けるのも、価値を生む考え方が次々と考えだされ、市場を創り、リードしてゆくから。
だけど、イノベーションを伴う斬新な考えは、世の中一般に「正しい」とされる考えに逆らうことが多いから、風当たりが強くなるのが普通。
だけど、もし、その新しい考えが次の時代を予期させ、先取りするようなものであれば、やがて、世の中が認め、それが当たり前になってゆく。時代の先駆者はいつもそうした風当たりをものともせずに改革をしていったことも事実。
次の時代の萌芽は、現在ただ今の中にある、とは良く言われることだけれど、萌芽の段階では、ほとんどの人はそれに気付かない。
そうしたとき、その萌芽を含んだ考えに基づいた公益団体なり、何なりに重税を課せば、簡単に潰れてしまう。萌芽の段階でそれに気づく人が少ないが故に、その団体を経済的に支える力は弱いから。
そうした「考え」を打ち出す最たるものが、宗教団体とか、報道機関。尤も、宗教団体と報道機関の打ちだす考えには、少しその性格に違いがある。
宗教団体は過去に説かれ、時代の波に揉まれながらも、今に伝わる伝統的価値や、新興宗教に見られるように、現代にマッチして未来に繋がる価値、つまり時間軸方向に過去や未来に伸びる価値を打ち出す傾向が強い。一方、報道機関は世の中を広くサーチしながら、一般的な報道もする一方、普段はなかなか陽の当らない対象を見出し、クローズアップしたりするという空間軸方向で価値を探し出して報道する特徴がある。
宗教団体でも、報道機関でも、そうした、「考え」を見出し、広く普及させるが故に「公益」があるとみなされるのだろう。だから、「考え」に重税を課すということは、そうした小さな芽を次々と摘み取ってしまうことに成りかねない。
要は、「考え」にお金を払ってくれるという、存在なり、パトロンなりがいないと、未来の可能性を潰すことに繋がる、ということ。これは、文化でも同じ。
もちろん、その低率な税という特権を逆手にとって、間違った考えや報道を普及させてしまうことで、世の中を間違った方向に導くことも在り得る。「表現の自由」は自由として、保証されているものだけれど、その自由の行使にあたって、責任が付随することは至極当然のこと。
つまり、間違った事を表現し、それによって誰かに迷惑を掛けた場合には、当然、それ相応の罰則なりなんなり、しかるべき処置を甘受しなきゃいけない。
これまでのように、間違った報道に関して、形ばかりの訂正記事を隅っこに出してハイおしまい、といったやり方はもう通用しなくなってきている。昨年の毎日新聞WaiWai問題がそれを物語っている。
証券会社がインサイダー取引かなにかで行政指導をうけて、何日間かの業務停止命令を受けたりすることがあるように、間違った報道には、放送停止命令を出して、一週間かそこら放送できないようにするとかしないと、もはや世間は納得しないのではないかと思う。そんな放送局には、いずれスポンサーも離れてゆくだろうし、それこそ市場原理が強力に働く。
だけど、「考え」は目に見えないし、手に取ることも、食べることもできない。「考え」だけでは空腹は満たせない。
だから、「考え」にお金を払うことができる、という国は、普通は経済的に豊かな大国が中心になる。
だけど、もし、その経済大国で生まれた文化なり、考えや思想なりが、その後の何十年、何百年をリードするものであったとしたら、その芽を摘んでしまうことの損失は計り知れない。
何がしかの「考え」が、その後の世界を支える原動力になる程のものであったとしたら、その「考え」を有する国は、かけがえのない宝、全人類を照らす光を持っているということになる。
つまり、現在ただ今の、経済大国には、それだけの責任があるということ。経済大国は、その国ただ一国の国益だけでなくて、世界全体をも潤す価値を生む可能性がある。
それが、経済大国が経済大国として存在することを許される条件なのではないかとさえ。
「考え」が価値を生む、ということに賛同できるのであれば、例えそれが乱立であったとしても「考え」を守り、競争させ、それらを互いに磨いてゆくことが大切。それが未来への国力の源泉となる。そして、それは世界を支える力へ飛翔する。
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