宗教は、自分のところの教えはこうだ、と全面に押し出して布教活動しているから、信者以外の人でもこの宗教は、こういう考えなのだな、こういう価値観を教えているのだな、と分かる。そして、それがその通りかどうかは、その教団なり信者なりの言動をみれば大体判定できる。
教え自体は立派そうなことを言っているのに、教団や信者が立派な立ち振る舞いをしていないのであれば、実は、教えが立派ではないか、教団や信者が教えを誤解しているか又は理解していないかのどれか。そんな教団を母体とする政党があれば、その政党の信頼性や支持はその分だけ落ちることになる。
宗教はそんな風にある程度チェックができるのだけれど、同じように、政党や各種団体についても価値観のチェックは出来なきゃいけない。
政党は選挙にあたって、公約を国民に示して、何をやらんとするか示すし、個々の議員にしても、その人となりや普段の活動に触れて知っている人にとっては、如何なる価値観に基づいているかどうかのチェックはできる。それはその他の団体に関しても同じ。
だけど、その団体なり、政党なりに特に興味がなくて、普段会うことがない人にとっては、その価値観をチェックする機会そのものが殆どない。
必然的に、その相手の価値観に対して、適切な判断をすることは難しくなる。それでも、民主国家では、誰であっても平等に一票を与えられている。
だから、特に選挙においてそうなのだけれど、政治に興味がある人ない人関わりなく、広く情報を伝達して、大衆に価値判断の材料を提供できる手段を持たなければ、民主国家は十全に機能しない。
つまり、マスコミの健全性がポイントになる、ということ。
仮に、マスコミが、ストローの様に、全ての情報に一切手を加えることなく大衆に伝達できればいいのだけれど、紙面の都合や、放送枠の関係で、流す情報に取捨選択を加えざるを得ない場合が殆ど。いきおい、何を報道して、何を報道しないか、という価値判断がそこに加わることになる。
事実を伝えるだけでも、取捨選択という価値判断が加わるのに、伝える情報そのものを操作したり、捏造しようものなら、大衆が正しい判断をすることは著しく困難になる。
だから、マスコミはせめて、自身がどのような価値観で持って記事を選び出し、乗せているかの広報をするべきであって、公正中立を装って、特定の個人、団体の後押しをするような報道は、大衆をミスリードすることになりかねない。
広く一般大衆に、思想なり情報なりを伝えるという意味では、宗教団体もマスコミも変わらない。であるならば、マスコミも、如何なる思想信条に基づいて、これを報道している、という看板を掲げるべきであって、それすらないのであれば、マスコミは、自らの教えを高く掲げる宗教以下の存在であることを、自ら宣言していることになる。
別に、今のマスコミ全てに対して愛国心を持てとは言わない。だけど、反日思想を持っているのなら、自分は反日なのだ、とはっきり宣言してから、そうした記事を出すべきであるとは思う。
そうすれば、読むほうも、そうだと覚悟してから読むし、最初から読む価値がないと判断することもできる。売買の時点でそうした判断が入るから、必然的に市場原理が働くことになる。
その意味において、宗教や各種教育制度、そしてマスコミがしっかりとして在って、それらが常に正しさを追求しながら、お互いに切磋琢磨できる社会であることが、民主国家にとっては何よりも大切なこと。
民主国家は、政治だけでなく、宗教やマスコミなどの価値観や情報の大衆普及手段が、共に正しく機能して始めて、健全な国家を構築することが可能になる。

関連エントリー: 告白する自由(毎日新聞問題について考える 最終回)
付記:当初は本エントリーがシリーズ最終回の予定でしたが、それを変更して明日記事にて最終回とさせていただきます。
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