政治と宗教の役割分担(政治と宗教について考える その6)

 
昔は、宗教が政治の代わりをしていた部分があった。インフラが整備されていなかったり、教育機関や医療が十分でなかったり、つまり政治の力が国中に行きとどかなかった時代には、僧侶や寺院がその役目の一部を担っていた。

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弘法大師は「満濃池」と呼ばれる日本最大の溜池を修築しているし、寺子屋では読み書き・算盤を教えていた。

なぜそんなことができたかと言えば、宗教は、教団という独自の組織を持ち、布施や浄財を集めることができたから。ある意味、民主組織の草分けだといえるのかもしれない。

だけど、時代が下って、世の中が発達してくると、世の中が専門分化して、より複雑になっていって、世の中を支えるために、専門家が沢山必要とされるようになってきた。

また経済の発達によって、政治の力でインフラや教育制度が整うようになってくると、そうしたこの世的な、肉体生命を維持する部分は、どんどん政治が面倒を見るようになって、宗教は、心の教えだけを説けるようになってきた。ある意味において、政治と宗教の役割分担が明確になってきたとも言える。

だから、政治が本当の意味でしっかりしていて、国民が安心して暮らせる社会が出来ていると、宗教は、別に政治に口出しなんかせずに、安心して心の教えだけを説いていればいい。

尤も、現代のように科学技術や社会システムが進んで、専門分化して高度化してしまった社会に対して、宗教が政治的な提言を行うことは、なかなか出来ない事も事実。宗教が各分野の専門家を、信者として大量に抱えることがなければ、提言一つとて難しい。

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もしも、宗教が政治に口出ししなければならず、しかも、それが「的を得ている」というようなことがあったとするならば、それはよほど政治の力が落ちていることに他ならず、政治家としては非常に情けない状態にある、と思わなくてはいけない。なぜかといえば、世にある識者を、政治がそれだけ掬い上げていないことを意味するから。

政治の力が落ちてくると、当然、国は乱れ、国家運営はうまくいかなくなってゆく。畢竟、国防力の低下や治安の悪化、さらには経済も停滞又は後退して、人心も乱れていって統制が取れなくなってくる。

そんなときに選挙が行なわれると、どうなるか。

政治家は自分が当選するために、その乱れた人心のご機嫌を取るようになってくる。平たくいえば、バラマキをしてみせたり、政治改革をして、この国を生まれ変わらせます、とか絶叫して人心をひき付けて票稼ぎに走るようになる。

悪くいえば、ポピュリズムに近づいてゆく。そんなとき、国民の価値観がしっかりしていれば、そんな甘言に惑わされることなく、本当に必要なことを求めるから、たとえば、不況下において、「米百俵の精神」を言われても、それを支持したりすることもできる。

だから、そうした国民の考え方や価値観を間違えない為には、常に「正しさ」を追求して止まない教育や、様々な考えを許容して内包できる社会がそこにないといけない。

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