政治の役目(政治と宗教について考える その5)

  
政治の役目は、なんといっても国民の命を安んずること。国民の生命および財産を守ることを第一の使命とする。そうして国を定めた上で、その土台の上に、経済・教育・文化がある。

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だけど、民主国家が、その国の繁栄を築く上において、民主であるが故に重要となる条件がある。教育の問題がそれ。

読み書き・算盤といった基本的な教育は兎も角として、躾を含めて、教育というものを行う限り、何某かの価値観を教え、伝えることになるのは殆ど避けられない。

普通、国家によって教育される価値観は、その国の伝統であったり、今の世の中で通用し、常識とされているものになるのだけれど、その肝心の価値観そのものが、民主国家の行く末を決めてゆく。なぜなら、教育を受けた青少年はやがて、成人して選挙権を持ち、各々一票を与えられることになるから。

国家が何某かの主義を下に国民に教育を行なうと、何年、何十年後にはその影響が社会全般に出てきて、政治にも反映されるようになる。

だから、国家における教育というものは、もちろん、その時、その社会において、最も正しいだろう、と思われるものについて慎重に精査して教えることにならざるを得ない。それは教育の目的にも依るのだけれど、基本的に、教育は、その社会で自立して、独力で生きていく力を身につけさせる、という目的で行われるものだから、その時、その社会に一番適合する価値観を教えるのは必然だといえる。

だけど、思想・主義において、一番の問題は、その正しいだろう、という思想や主義が未来永劫に渡って「正しい」とされるとは限らないということ。その主義・思想が、何処まで、何時まで正しいのか、という中身は、国家を大きく左右する。

これは、正義の問題とも絡んでくるのだけれど、この世における「正しさ」自体が、時代の趨勢や国際環境の影響を受けて、圧力を受けたり、変化したりすることに起因している。

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ここ百年くらいを眺めてみても、植民地を是とした正義があり、共産主義が良しとされた時代があり、今や、資本主義に疑念が持たれ、保護主義的考え方が勢力を増しつつある。正義なんて時代ごとにコロコロ代わってる。

だから、国家は、国民に基本的なことを教えたら、後は、本人が独力で考えを修正したり、転向したりできるような「材料や環境」を出来る限り整えておくことが望ましい。

仮に、マルクス主義思想を持っていた人であっても、それを否定せず、また、いつでも転向できるように、本なり、教育機関なりで、自由主義の考えを学習できる機会を提供したりできていれば、「正しさ」自体が時代とともに変遷しても、個人レベルで思想の修正をしていくことが可能になる。

何某かの教育に対して反対できる人がいるということは、そうではない教育を受けているか、そうではない情報を得て、自らの考えを変えることができる環境があるということを意味してる。

特亜のプロパガンダを受けて育ったけれど、ネットの情報やその他の本を読んで洗脳が解けたという人だって沢山いる。

カルト教団に入っている人を称して「洗脳されている」とは、まま言われることでもあるけれど、穿った見方をすれば、教育だって洗脳の一種だ、といえなくもない。戦前・戦中派の人たちが、戦後教育で、大きなショックを受けたというのも、戦前教育の洗脳が解けただけなのだという解釈だってできるし、隣国の反日教育なんかは、日本から見れば、それこそ「洗脳している」ように見える。

だから、その国の教育を正しいものにできるかどうかは、つまるところ、宗教なり思想や主義なりが乱立していたとしても、それを無闇に否定したり弾圧したりせずに、むしろ切磋琢磨させてゆく中で、より正しい考えを内包していって、また同時に、そうしたものに触れられる機会をどこまで提供できるか、という問題に帰着するのだと思う。

これも、結局は、「信教の自由」を如何に保障してゆくかという問題と軌を一にする。

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