正義と正義のぶつかり合い(政治と宗教について考える その3)
神の言葉であれ、そうでないものであれ、それに基づいて、現体制から変革を行った場合、その是非の結論がでるまでは、ある程度、時間がかかる。それは正義の決まり方に起因している。
何某かの主張同士がぶつかるとき、どちらに正義があるかなんて、その場ではなかなか分からない。どちらも自分こそが正義だと主張しているし、どちらの言い分にもそれなりの理があるように思えるもの。
そうして主義と主義がぶつかりあい、やがて、力と力のぶつかりあいになって、最後には力の強い方が勝利を収めることになる。
だけど、その勝った方が正義であるかどうかは、やはりある程度の時間が必要で、その後に、そこに顕れてくる世界、そこに住む人々がその世界に納得し、満足し、結果として幸せを得たかどうかに大きく左右される。その後の世界が幸福であれば、あれは正義だったとなるし、そうでなければ、その逆に傾いてゆく。
たとえば、明治維新なんかは、幕府側からみれば、下級武士のクーデターであって、当然鎮圧の対象だった。新撰組はせっせと反幕府勢力を取り締まっていた。
当時は勤皇だ、左幕だ、いやいや開国だ、とかいろんな主張が交わされていて、どれが正しい道だったかどうかなんて、なかなか分からなかっただろうと思う。
だけど、結局、幕府は倒れ、明治新政府が出来て日本は開国した。
今では、明治維新は正義ではない、と主張する人はほとんど見かけない。それは明治維新によって、その後の日本が発展し、結果として人々が幸せに暮らせるようになったから。
もし、明治維新後の日本が悲惨なものだったとしたら、幕府再興運動かなんか起きていたかもしれない。
今だったら、たとえば、イラク戦争なんかはそうかもしれない。イスラム社会では、コーランがそのまま憲法にもなり、社会秩序を規定するものだから、民主国家と比べてもずっと、祭政一致、政教一体の社会になっている。それに対して、アメリカはイラク戦争を行なって、民主主義という楔を打ち込んだ。
現実には、石油利権の絡みがあって、ドル基軸体制の維持のため、というこの世的な理由があったにせよ、思想的にみれば、預言者兼政治家が、神の教えに従って作った社会に対して、そうではないと民主主義が戦いを挑んだ姿のように見える。預言者が政治を司ることを是とする正義と、民主的に選ばれたものが政治を司るべきだ、という正義同士がぶつかった構図がそこにある。
まだ、戦闘が終わってからそれほど時間がたっていないから、あの戦争のどちらに正義があったのかどうかはっきりとは分からない。現時点で、はっきりしているのは、フセイン大統領を除いて暫定政権を経て、イラク人による新政府が発足したこと。この政府がどういう政治を行うか、アメリカが置いて行った民主主義の考えがイラクの人々に幸福をもたらすかによって、あの戦争が正義だったのかどうか、時とともに見えてくるようになるのだろう。
そして、その時には、預言者兼政治家による政治と、民主主義による政治のどちらが良いのかの判定が下されることになる。
預言者は神が選ぶけれど、民主国家では、政治家は民衆が選ぶ。
王侯貴族などのように生まれながらにして、神から王権を授かった人物が権力を握る社会と、民衆一人一人の総意によって権力を与える社会とでは、その権力を与える主体が異なっている。
この権力を与える主体が誰になるか、という一点が、権力の専横を許すか許さないかを分ける鍵になる。
その国の権力、すなわち王である権利は神が授けるものである、とする政体は、いわば預言者が政治家になるようなもので、その政治家に逆らうことは神への反逆になる。確かに、その政治家が真に神の代理人であり、神の声を預かるような人であれば、それこそ、素晴らしい政治をするだろうと予想される。
だけど、暗愚な君主で側近に操られ利用されたり、暴君であったりした場合には、最悪の治世となることは火を見るより明らか。だから、権力を与える主体が、極々一部の者しか持っていない社会は、そうしたリスクを抱えている。
そのようなリスクを回避する手立てを、システムとして持たせたのが民主主義。民主国家では、政治家は民衆が選ぶから、多数の民衆の人心を掴んだものしか、政治家として選出されることはない。
民衆は数も多くて、いろいろな考えを持っているものだから、その意見は互いに牽制され、総体としてみれば、大抵は、最上ではないにせよ、最悪ではないところに落ち着いてゆく。
だから、たとえ、民主選挙における候補者が、何某かの宗教信者だったり、宗教家だったとしても、それとは関係のない人も含めた、大多数の民衆の支持を集めないかぎり、絶対に当選できないシステムになっている。
つまり、民主国家では、宗教が政治に直接参加したくても、その宗教自身が、多数の国民の支持を集めるものでない限り、それは不可能である、ということ。
もちろん、政治家たちに多くの献金をすることで、間接的に政治に大きな影響力を発揮することは可能なのだけれど、それとて、その肝心の献金をするためには、多くの浄財なり布施なりを集めなければいけないから、多くの信者やシンパが必要になる。つまるところ、大多数の民衆の支持が必要になることに変わりはない。
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王権神授説 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
王権神授説(おうけんしんじゅせつ)は、「王権は神から付与されたものであり、王は地上における神の代理人であるのだから、王は人民に拘束されることがなく、王のなすことに対して人民はなんら反抗できない」とする政治思想である。ヨーロッパの絶対王政期における、王の教会権力からの独立と国民の絶対的支配の理論的根拠となった。また王を神の代理人とすることで、擬似的な神性を与えることになった。
ヨーロッパの思想家ボシュエ(Jacques-Bénigne Bossuet)がルイ14世の王太子に講義した一節に端的にあらわれる思想である。その内容は、新約聖書「ローマ人への手紙」13章を根拠として考えられている。概要は「(キリスト教国の)地上の王権は、全て神の代理としての権限が与えられている。」というものであった。今日ではイギリス王室の戴冠式において、新国王に聖油をつける儀式などにその名残が見受けられる。王権神授説は主権者無問責の原則の原初的な現れであり、行政権が法の支配を受けるようになった近・現代史においても国家無問責の原則は長く採用された。
URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%A8%A9%E7%A5%9E%E6%8E%88%E8%AA%AC
清教徒革命 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
清教徒革命またはピューリタン革命(せいきょうとかくめい/ピューリタンかくめい、英語:Puritan Revolution または Wars of the Three Kingdoms)は、狭義には1641年から1649年にかけてイングランド・スコットランド・アイルランドで起きた内戦・革命である。広義には1638年の主教戦争から1660年の王政復古までを含み、「大反乱」「三王国戦争」もしくは名誉革命とあわせて「イギリス革命」「ブリテン革命」とも呼ばれる。革命中に起きた諸事件については清教徒革命の年表も併せて参照のこと。
▼ 概要
ステュアート朝イングランドは国教会による王の絶対主義によって維持されていたが、富をえて上昇する者と没落する者が錯綜し、社会のしくみが絶対主義の確立されたテューダー朝期とは大きく異なってきていた(ただし、ステュアート朝期における王室と議会の対立の源となった社会矛盾の多くはテューダー朝期に由来している)。そのなかで王室は財政難に苦しみ、チャールズ1世は王権神授説にもとづき議会と対立し、変化に対応する能力を失っていた。内戦はアイルランドのカトリック蜂起(1641年)から始まり、翌年イングランドでも王と議会の対立から内戦がおこった。スコットランドでも主教戦争をへて1644年、盟約派と国王派の間で内戦が始まっている。特にイングランドではピューリタニズムの影響を受けて民衆運動となり、次第に過激化・大規模化していった。国王派と議会派の内戦は議会派の勝利に終わったが、議会派内でも内部対立がおこって国王処刑も行われた。内戦はそれぞれの勝利した陣営によって三つ巴の戦争に発展し、特にアイルランドでは現在も続くアイルランド問題の発端となった。この戦争を制した共和政イングランドも安定せず、大きな軍事的功績をおさめたオリバー・クロムウェルが担ぎ上げられる形で護国卿となった。しかし護国卿政は5年で破綻し、王政復古によって革命は失敗に終わった。かくしてイングランド・スコットランド・アイルランドは王政に復したが、星室庁や独自の財源を失った王権の弱体化は明らかであった。実権を掌握しつつあったイングランド議会は王権神授説や絶対王政を志向する王との溝を深めてゆき、それはやがて名誉革命を招くことになった。
清教徒革命はステュアート朝の王たちがめざしていた絶対主義から脱却するという点から市民革命のひとつとして分類される。現在では名誉革命と併せてイギリス革命として議論されることが多い。
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