宗教が実際に、何を教えているのかといえば、新興宗教は兎も角として、伝統的宗教、たとえば、仏教であれば、執着を去って、煩悩を滅却する教えであったり、キリスト教であれば、信仰と愛の教えであったり、多少、教えに違いはあるにせよ、大枠でみれば、善悪を教えて、心を正し、魂を救済する教えであるように見える。
そして、実際にそういう認識である人は多いと思う。政治と宗教は別だ、という考えの根拠もこの辺りにあると思われる。つまり、宗教は人の心を癒してさえいれば良いのだ、現実社会には口を出すべきではない、と。
だけど、政治的指導者でありながら、宗教家でもあった例は歴史上存在している。
たとえば、モーゼとか、マホメットだとかはそう。モーゼはエジプトの奴隷を解放してカナンの地に向かったし、マホメットは幾多の戦闘の後に、一度は脱出したメッカを奪回した。
だから、この世的に見ても、モーゼやマホメットは、政治家であるようにも見える。少なくとも政治家的側面、軍事的資質を持っていたことは確か。当時のエジプトの王から見れば、モーゼはイスラエル人の指導者だし、当時のメッカを支配する人たちからみれば、マホメットは反乱軍の首領。
ところが、モーゼはシナイ山で神から十戒を授けられているし、マホメットはアラーの神から啓示を受けた。そして、それに基づいて神の教えを説いている。
だから、神の言葉を預かる人、所謂、預言者を宗教家の範疇に含めていいのであれば、政治家と宗教家が同一人物になることは、十分在り得る話。
もしも、そうした人物が、一国の王であったり、大統領であった場合は、政教一致、祭政一致の政治が行われることになる。
要は、政治家が神の啓示を受けて預言者となった場合、それでもなお政治家として認めて国政を委ねるかどうかが、祭政一致を是とするかどうかの分かれ目になる、ということ。
もしも、それを是とするならば、政治的指導者が、何某かの啓示を受けて預言者となった場合には、マホメットの例を取るまでもなく、神の教えに従って、具体的にこの世を改革して、世直しを行ってゆく可能性は極めて高い。
そして、その人物は、魂だけでなく、この世の生命をも救済していくことになる。
だけど、そこには大切な観点がある、それは、その神から預かった言葉に従って、世の中を変革してゆく場合に、その預言が、真に神のものであるか、そうでないかは、余人にはなかなか分からない、ということ。
イエスでさえ、当時の律法学者と度々論争している。当時は律法こそが守るべき戒律で正しい道だった。律法学者を公然と批難したイエスは、当時の権威に対する挑戦者だった。
預かった言葉が、本当に神からのもので、それに従って社会をつくることで人々が幸せになるのであれば、それで良いのかもしれないけれど、そうでなかった場合は悲惨なことになる。
彼の預言は、神の言葉かもしれないけれど、そうでないかもしれない。そのようなリスク込みで預言者でもある政治家に国政を委ねるのかどうかという問題がそこにはある。

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高齢支援者
未知の非凡さより、既知の凡庸さに馴染むのが俗世間です。選挙は、聖なる高みより、凡庸な俗との接点を大切にしなければならない、忍耐を伴う活動です。みんなで力を合わせ、多くの人々を、幸福実現党の支持者のブログに導き、総裁のお話を聞き、映像を見ていただきましょう。