今日は諸事情により、過去エントリーを再掲載させていただきます。
正義・人権について考えてみたい。ただし、正義という概念については、過去様々な諸賢にて議論されているテーマでもあり、正直、筆者には荷が重いことは十分承知している。それでもなお、思索を試みるのは、ひとえにチベット問題を契機として、人権や正義とは何かという疑問が湧いてきたためである。
今回の正義をテーマとするエントリーは、筆者的には試論の位置づけであり、諸兄の御指摘、御指導を仰ぎながら再度、再々度、修正・訂正・加筆を加えていきたいと思う。
1.ピュシスとノモス
正義についてWikipediaではこう説明されている。
『正義とは、各人に各人のものを配分すること、あるいは、一旦崩されたあるべき状態を回復すること、あるいは、何かを交換するにあたってそれが等価交換になるようにするという理念を意味する。』
各人に対して、何がしかのあるべき状態があって、それを配分して保たれた状態のことを正義と定義している。
正義は「あるべき姿」とそれらが「保たれる」ことの二つが同時に成り立って始めて成立するということ。
そこでまず、「あるべき姿」とは何かについてまず考えてみたい。
「つまり、正義とは自分が住んでいる国の決まり(ノモス)を犯さないということである。したがって、人間は、目撃者のいる場では法(ノモス)を大いに尊重し、目撃者がいない自分一人だけの場では、自然(ピュシス)のそれを尊重するようにすれば、正義を最も自分のためになるように活用することになろう。なぜなら、法の上の事柄は後に勝手に定められたものであるが、自然的な事柄は、変更できない必然的なものだからである。」
ギリシャはソフィストの時代に活躍したアンティポンの言葉。
当時のギリシャでは、ピュシス(自然の法)とノモス(慣習、polisの法)の議論があった。
自然の法(ピュシス)は自然の中に流れる掟。人がつくったものではなく、人智の及ばない、永遠に変わらないもの。
ノモスは法であり、規範。人が人為的につくったもの。安定感がなく、その場や時代に応じて新しい法に変わる。人間の力でいかようにも変更可能なもの。
2.法に従う理由
自然の法(ピュシス)は自然の中に流れる掟だから、人間が存在するしない、社会が存在するしないに関わらず、そこにあるもの。不変なもの。自然の法(ピュシス)は何者にも制約されることなく、同時に全ての内にあるもの。
だから、人間や国が存在して、その社会を秩序作る決まり事(ノモス)があったとしても、依然として自然の法(ピュシス)は存在するし、何の制約を受けることもない。
自然の法(ピュシス)は自然の中にも、個々の心の中にも存在して、それらが「掟」となるほどに普遍的なもの。人として自然な姿、あるべき姿。
ノモスはやってはいけないことを取り締まる。社会秩序を守るために、これこれはしてはいけないとか、これこれの場合はこう分ける、などと人々の間の合議によって取り決めをする。
このとき、それらの取り決めがピュシスである「自然の法」に適っている場合、そのノモスは「自然の法」を社会に投影した決まり事になる。ノモスの根拠はそのまま自然の法(ピュシス)にある。
だけど、ノモスと自然の法(ピュシス)が互いに相反したときに、ノモスの根拠は何であるのか、はたしてそのノモスは法として有効なのか、という問題が次に起こってくる。
正義を規定するところの「あるべき姿」は、自然の中の真理の内にあると考えるか、人々の合議の中にあると考えるかの違い。
紀元前5-4世紀のソフィスト達はノモスとは自己利益に根ざした人為的に作られた規制の形式であり、自然の法(ピュシス)に逆らうものと考えた。後に功利主義と言い換えられるところの自己利益にノモスの根拠があるとした。
それに対して、プラトンは、普遍な知を表す思考、それ自身永遠に同一でありつづける思考の果てに見いだせるイデアにその根拠があるとした。更にアリストテレスはプラトンのイデア論を自然概念に結びつけ、人間も自然の一部なのだから当然、自然の秩序に規律されると主張した。
3.自然の法(ピュシス)とノモスは別のものか
ここで、「人間は子孫を残す」という事例を考えてみる。人間のみならず、動植物は子孫を残すのは自然なことであるし、おそらく悠久の昔から変わらぬ事実。自然の法(ピュシス)のひとつといってもいい。
ある国で、国王が全国民の子供ひとりあたり、毎年麦一束を分け与えると約束していたとする。ある年、麦が不作になって、分け与えるほどの麦がとれなくなった。仕方なく国王は「今後ひとりとして子供を作ってはならぬ」という法を作ったとしよう。
この法律は、「人間は子孫を残す」という自然の法(ピュシス)からみて明らかに反している。だけどこれはノモスであって、権力者の自己利益または国民利益に根ざした人為的な決まり事であるのだから正当性があるといえるだろうか。それとも、この法は自然の法(ピュシス)に反しているから法ではない、有効性はないとすべきだろうか。
もちろん、こんな極端な例ではなくて、なるべく自然の法(ピュシス)と対立しないようなノモスを規定すればいいという考えも当然ある。
たとえば「子供をつくるな」というからおかしくなるのだ。そもそも子供を一切つくならければ、やがて皆年老いて死んでしまって国が滅亡するではないか、要は麦の分配を工夫すればよいのだ、子供一人あたりではなくて、世帯ごとに均等に分ければいい。 といった具合に配分の仕方を変えてみるとか。
つまり、法を守る根拠、「あるべき姿」には、自然に流れる法則なり、イデアなりというものがあって、そうであるが故にそれに従って生きるべきだという考えと、そんなものは理想であって、現実社会とは別なのだから、現実社会は現実社会だけを治める法律を作ればいい、それはたとえば最大多数の幸福を基準にすればいいのだ、というような大きく二つの考えに別れることになる。
前者がプラトン、アリストテレス的な自然の法(ピュシス)とノモスは表裏一体のものであるという立場。後者は、功利主義的な、ノモスは自然の法(ピュシス)とはまったく別のものであるという立場。
4.あるべき姿をどう認識するか
果たして人間は、自然の法(ピュシス)を認識できるのだろうか。
もしも、人間は自然の法(ピュシス)など絶対に認識することはできない、と考えるのであれば、そこから先は二つの道にわかれることになる。ひとつは人間を半ば超えた存在、最高峰の認識を持った神の代弁者に語ってもらう道。もうひとつは自然の流れに身をゆだねる道。
前者は時に預言者や宗教家と呼ばれ、後者は神の見えざる手と呼ばれる。
預言者は神の声を預かる存在。天上から導きたる神の教えをそのまま人間社会の規範として地におろす。人間はそれに従って生きるべき存在。
一方、自然の流れに身を任せるとは何かといえば、社会の決まりごとは、長い時の流れの篩にかけて残ってきたものだから、それに素直に従えばいいという考え。すなわち伝統や風習に、神の見えざる手が働いて、それらに自然の法が示されているという立場。神の手のひらの上で人間達が生きているという世界。
それとは別に、人間は自然の法(ピュシス)を認識できると考えるのであれば、人間は神の一部であるとするか、人間は神を認識するための、なんらかの道具を持っていると規定する必要が出てくる。
トマス・アキナスは真の道徳・正義についての原則が存在し、それは神に由来するものの、人間が理性で発見できるとした。人間理性が自然の法(ピュシス)を発見する道具である、と。
もともと人間が作ったものではないものを人間が認識できるためには、観察と思弁は欠かせない。自然を観察できなければ、対象データをそろえられないし、思弁がなければ、自然の中の法則を発見できない。だから理性が必要になる。
人間が神の教えに基づいた、なんらかの理想社会を設定し、それを目指してゆく場合、その「あるべき姿」がどういったものであるかは、その神の教えの性格や民族の歴史、伝統の制約を受けることになる。
どんな神の教えとて、教えが説かれるときは、その時代、その場にいる人を真っ先に救う。だからその地域の風土や慣習も踏まえた上で、その場にいる人が理解でき、納得できる教えでなくちゃいけない。
イスラム教が豚肉を食べるのを禁止しているのは、豚は雑食であり、人の食べるものと共通の範囲を食べるから、砂漠で生き抜くためには、同じ食べ物をわけあたえなければならない豚はぜいたく品として禁じたという説もある。
自然の法(ピュシス)の内容を神に求める場合であっても、神の教えがいったん地に降りたあとは、教えが土着化するに従って、地上の伝統や風習の中にそれらが溶け込んでゆくもの。
神の教えに基づいた社会も、神の見えざる手が働く社会も、どちらの社会にも神が介在してることに変わりはない。
5.あるべき姿はいくつあるのか
今の地球上で「あるべき姿」とされているのは、ひとつというわけじゃない。自由主義、共産主義、イスラム社会など様々な主義主張を「あるべき姿」として、それぞれの国や地域で求め、適用している。
それぞれがそれぞれのあるべき姿を正義としてる。
あるべき姿として地に現れてくる自然の法(ピュシス)の根源が神にあるのであれば、神の数だけあるべき姿、正義が存在してもおかしくない。
あるべき姿というものを「神の理想」に置き換えた場合、あるべき姿がいくつあるのかいう疑問への答えは、時と共にその理想を変える「移り気の神」が天におわしますのか、または神はいくつも存在して、それぞれの神がそれぞれの理想を持っているかどちらか、または両方ということになる。
地上を見渡してみれば、それぞれの時代、それぞれの地域でそれぞれの正義があり、それらを奉じて人間社会が成り立っているから、神は複数存在するというのが実際のところなのかもしれない。
だけど、大切なことは、一神教であれ、多神教であれ、複数の「あるべき姿」が同時に示されているという事実。
人類の進歩という観点からみれば、「あるべき姿」はひとつよりは複数あって、互いに切磋琢磨できたほうがいい。
もしも、「あるべき姿」が未来永劫、普遍の何かただひとつだけであるとしたら、人類社会はいずれはそちらに収斂していかなくてはならなくなるのだけど、なにかひとつに収斂した瞬間に人類の歴史は終結してしまう。それ以上変化もなければ進歩もない。究極の理想状態から変化したものは、堕落した姿になってしまう。
一神教であれ、多神教であれ、神が人類の進歩を望んでいるとするならば、神は永遠に「究極のあるべき姿」を人類に示さないのかもしれない。
だから、人類の歴史の中で正義とされたものの中身が次々と変転していったのも、なにかひとつの正義だけが真に正しい正義だというわけではなくて、神の理想に向かう過程の中で、いろいろな正義が人類の進歩の材料として現われているに過ぎないと捉えることもできる。
神は決して移り気なのではなくて、人類を導く方便として、様々な「正義」をその時代時代に合わせて地に下ろしているだけなのだ、と。
本当のところはわからないのだけれど、それもやっぱり神の思し召しなのかもしれない。
6.正義の変転
地に降りた教えの厳密さ、詳細さは、人間の自由意思と深く関係がある。
たとえば神の教えが賽を穿ち微に渡り、それこそ箸の上げ下ろしまで規定するくらいになったとすると、人間の自由裁量の余地はどんどんなくなってゆく。
人間は神の教えに従いさえすればよいから、ある意味、とても楽ではあるけれど、そこに人間の自由意思が存在する余地はない。
宗教的にそういった規定が最も厳格なのは、おそらくイスラム教。イスラム教はコーランから始まり、スンナ、イジュマー、キヤースと、人の行動規範において、なになにすべきから、守るべき教えの優先順位まで事細かに規定している。
アラーの教え、預言者の慣行、イスラム法学者の合意やその応用が人間をガチガチに縛っている。だから、もしイスラムの正義が変転することがあるとするならば、新・マホメットたる新しい預言者がアラーの言葉を授かることによってしか変更することは難しい。
同じことはキリスト教にもいえるのだけれど、キリスト教は中世にトマス・アキナスによって、神の法に沿ったもののみが法であるとしながらも、人間理性によって自然の法は発見できるとしたから、人間社会の法に対してある程度の自由裁量が認められた。
さらに宗教改革を通じて、「聖」と「俗」を分離したことで、ますます人間社会における法の自由性が確保された。ノモスを聖なる世界から分離したことで、正義の変転に対してより柔軟に対応できるようになった。
尤も、イスラム教とて、コーラン、スンナに続く、第三法源であるイジュマーは、イスラム法学者によるアラーの教えの法解釈だし、第四法源であるキヤースに至っては、イスラム法学者たちが、コーランの教えにない事柄に対して、類似した事項から三段論法によって導き出すものだから、もはや人間理性によるアラーの教えの探索・発見といえる。
だけど、イスラム世界は今だ「聖」と「俗」が分離していない社会。だから柔軟性という意味においては、キリスト教社会に及ばない。その代り、建前上は、社会の隅々にまで、アラーの教えに従っているということになる。
正義は時代とともに変転するもの。時にそれは時代精神とも呼ばれる。現代に通用している時代精神はフランス革命に端を発する「自由と平等」。
人間理性で神の理想を発見できるとする考えは、ともすれば、人間理性に神に等しき権限を与えるがゆえに、世の中を人間の意志によって作り変えることを肯定させる。
ともすれば、力ずくでも神の正義を実現しようとする、いわゆる「過激派」にも格好の口実を与えることになった。人間理性によって発見したこの神の理想・正義は、すみやかに実現されるべきである、たとえ革命を起してでも、と。
それに対して、預言者に依存することもなく、神の理想、自然の法は人間には到底認識できないのだから、人間社会は自然の流れに身を任せるべきと考えた場合は、その正義の実現は実にゆるやかなものになる。
時代が移り変わってからようやくあれが神の手だったのか、とわかる立場だから急進的な革命が起こる余地はとても少ない。
7.あらしめる力はどう規定されるか
なんらかの「あるべき姿」があったとして、具体的に現実社会を治めていくところの法律、ノモスをどう決めればいいかを考えた場合、それは人間が何者にも制約されない「自然状態」において、人はどう行動するのだろうかという見解によって変わってくる。
「自然状態」においても人々は規律正しく、折り目ただしく生活すると思えば、ちまちまと法律を規定する必要はなくなる。逆に欲望に身を任せて好き勝手すると思えば、それを抑止する物理的・心理的力とその基準となる法律を作らなきゃいけない。
あるべき姿を自然の法・神の理想だと捉えれば、その社会の法律、ノモスはあるべき姿を有らしめるために必要な取り決め、ということになる。
そのためには、人間は社会の中で何を志向して生き、行動するのかを考えなくちゃいけない。
自然状態での人々の行動に対する見解を善悪という尺度で大まかに区分すると3つに大別できると思う。
それらは、ホッブス、ロック、ルソーの思想にみることができる。
-ホッブスの思想
人間の現在の生存は、現に今生きていることによって保証されるのに対して、未来の生存はいまだ明らかにされていないから保証されることがない。個人が生存できるかできないかは、常に他者との力関係による相対的なもの。だから、未来の生存を確保するための人の欲望は際限がない。このような未来の生存を確保するために、暴力などの積極的な手段に訴えることは、自然権として善悪以前に肯定される。
#NAME?
あるべき姿(自然法)は、自然状態からの脱出を命ずる理性ではなくて、自然状態において行われるべき正しい姿である。自然権は、自然状態におけるあるべき姿(自然法)が保障する各人の正しい取り分。だから他人に十分な良い物(goods)を残す限りにおいて、人は好きなように収穫して良い。
#NAME?
自然状態では人間は真に自由であったし、自然権も調和して保たれている。だけど、悪い人間はいるもので、他人の自然権を掠め取り、自由を奪ってしまう。だから、一見、自然状態は自足的・持続的で理想的と思えるのだけど、実は他人が権利を奪い取れてしまう脆弱なもの。 よって自由の回復は、単純な自然に還ることでは成し遂げられなくて、社会状態という「第二の自然」に入ることでしか得られない。
ホッブスは、あるべき姿を云々する前に、まず「生きて」いなければ始まらないだろう、当然みんなそれを欲するし、そのためには暴力に訴えるのも止むを得ない、という考えだし、ロックは、いやいや放っておいても人はあるべき姿に向かう存在なのだから、他人の迷惑にならない限り自由にしていいという考え。
ルソーは、原則、人間はあるべき姿に向かうのだけど、中には悪い奴もいて横取りしてしまうこともあるから、なんらかの規制をして、一人ひとりに鉄鎖をはめるしかないという考え。
ホッブスが性悪説的に人間を見ているのに大して、ロックは性善説、ルソーは善悪双方の折衷型といえようか。
性悪説的に人間をみればみるほど、罰則規定を強化して、ある意味、恐怖による統制を下敷きにした社会が出来上がるし、性善説的にみればみるほど、罰則はより少なく、規制がより少ない自然に任せるような社会になってゆく。
8.自然権と人権
あるべき姿を有らしめるための法律、ノモスを人間の性質を基準に決めるとすると、最低限必要になるものは、人間ひとりひとりがそれぞれ理想とするなんらかの「あるべき姿」に向かえる環境を保証しないといけない。
ひらたくいえば、精神の自由をどうやって確保していくかということ。
精神が自由であり続けるためには、まず精神の主体が生存できて、他の何者にもその考えが制約されないことが必要になる。
個人が「あるべき姿」に向かうときに絶対に必要なものは精神の自由であるけれど、それが如何なる条件において満たされるか、という見解によって、その保証すべき権利も変わってくる。
たとえば、人間はみんなディオゲネスのような人たちなのだと思えば、国家は生命の保証と、1個の樽と、あとは日当たりのいい場所さえ提供すればいい。
だけど人間は貴族やセレブのように、なんでもかんでも周りがやってくれる環境でなければ、精神の自由なんかは到底持てないのだ、と考えれば、すべからくそのような環境を提供しなければならなくなる。今ではとうの昔になくなった奴隷制も、奴隷が食糧と富を確保するための労働を代わりにやってくれたからこそ、貴族が精神の自由を確保することができたとも言える。
両者は極端な例だけど、ディオゲネスですら最低限必要になるものはといえば、生命の保障と樽。つまり生存権と所有権。これが最低ライン。この最低ラインを人間が生まれながらにして持っている、としたのがルソー。だから国家なんかの権力がこれを侵害することは決してあってはならない、自由と平等は人間が生まれながらに持っている自然な権利という思想になった。
自然権が保障した最低限のものは、ほとんどディオゲネスのレベルと変わらない。もちろん樽じゃなくて立派な屋敷なり金塊なりを所有してもいいけれど、その根本はどこまでも精神の自由を確保するための条件であるということ。
精神の自由を確保するための最低条件であったはずの生存権と所有権。だけど、精神の自由が、いつの間にか欲望の自由にすりかわってしまって、声高にあれもよこせ、これもよこせと、国家にあれこれ求めていくようになってしまうのも、また人の世の常。
日本国憲法で所有権を定義しているとされる第25条では、『すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。』となっているけれど、この「最低限度の生活」というものをどう考えるかによって、ディオゲネスになるか、セレブになるか分かれてくる。
9.社会のあるべき姿に必要なもの
個人があるべき姿に向かわんとするとき、社会もあるべき姿に向かっていくけれど、そのために必要なものもまた設けないといけない。思想表現・選択の自由と集会・結社の自由がそれ。
個人があるべき姿に向かう時、地上に生きている限り、心に持つあるべき姿は現実社会の中で表現され得るもの。自分はこういう理想を持っているとか、こういう風に生きてみたいとか。個々人のポリシーがある。それを公言し、表現し、実践しても国家権力がそれを弾圧してはいけないということ。
社会も個人の集合から構成されるから、ひとりひとりが自由意志を表現し、選択して、あるべき姿を目指してこそ、社会全体もあるべき姿に向かうもの。
表現の自由があればこそ、他者と互いのあるべき姿について議論し、理解し、調和していくことができる。
集会・結社の自由があればこそ、同じ信条のもと、結社を作ったりして、具体的に社会へアプローチすることができる。
だから、社会をあるべき姿に向かわせる力を現実として有らしめるためには、そういった権利は必要不可欠なもの。
これらは、個人が各々のあるべき姿を求め、その総体として社会や国家があるという前提での論理だけれど、それこそが民主国家。表現の自由や集会・結社の自由が保障されていなければ、いくら国民主権を唱えたところで社会は少しも変わらない。
信教の自由や結社の自由といった、考えを他の何者にも制約されないという権利は、国家がそれを保証することによって、比較的平等に配分することができるけれど、生存権に関わる問題、富の配分となると国ごとに事情は大分変わってくる。
10.分配の論理
どんな時代でもどんな国でも、すべての国民が貴族やセレブになれるほどの富に満ち満ちた状態であることは稀有なこと。殆ど有り得ない。だから、国家は限りある富をできる限り公平に分配して、健康で文化的な最低限度の生活を保障することしかできない。
そういった分配の論理は過去さまざまな方法が提案されてきた。古くはアリストテレスが提唱したように、個人の徳性や能力に応じて配分されるべきである、とか近年では破綻したことが明らかになってきた、共産主義のようにひたすら平等配分すべきだとする考え方であるとか。
さらには、最大多数の最大幸福を理想として、そのためには部分的に個人が損をすることになっても止むをえまいとする考えもある。
「私が試みたことはロック、ルソー、カントが提唱した伝統的な社会契約の理論を一般化し、高度に抽象化することである。」
公正としての正義を唱えたロールズの言葉。
ロールズは功利主義からの克服を目指して、正義の二原理を提唱した。
第一原理(平等な自由の原理)
「各人は、基本的自由に対する平等の権利を持つべきである。その基本的自由は、他の人々の同様な自由と両立しうる限りにおいて、最大限広範囲にわたる自由でなければならない。」
第二原理(格差原理と、公正な機会均等の原理)
「社会的・経済的不平等は、次のニ条件を満たすものでなくてはならない。
(1)それらの不平等が最も不遇な立場にある人の期待便益を最大化すること。
(2)公正な機会の均等という条件のもとで、すべての人に開かれている地位や職務に付随するものでしかないこと。」
第一原理は自由に関する原理。彼は他者の自由を侵害しない限りにおいて自由は許容されるべきだと説き、基本的自由の権利(良心の自由、信教の自由、言論の自由、集会の自由など)はあらゆる人に平等に分配されねばならないとした。
また、第二原理では、格差はどのような条件下において許容できるかを設定し、環境的に最も恵まれない人は篤く施すべきであるとした。同時に機会平等において結果として現れる格差は許容されると主張した。
要はチャンスは平等に、結果については公平に処するという考え方。
11.自力と他力
あるべき姿である、神の理想、天の掟と、あらしめる力としての地上の正義。その地上の正義はあらしめる力をどのように規定するかと、どうやってそれらを広くあまねく地にいきわたらせるか、という3つの要素のどれを重要視するかで法に対する考え方が変わってくる。
自然法・自然権・人権の差異がそれ。
自然法は、事物の自然本性から導き出される普遍で不変な合理的法。
自然権は、自然法を地に顕すための最低限必要な条件。
人権は、ディオゲネスにはなれない庶民でも自然法に向かえるために必要な手当て。
自然法派、自然権派、人権派とか色々あるけれど、要は人間社会を「あるべき姿」にする為に何を重点的に行えばいいかという見解の差。
ここで、自然法、天の掟を、仮に仏陀の説いた法(ダルマ)と置き換えてみると、自然法・自然権・人権はそれぞれ修行論としての関係が成り立つように思える。
つまり、これらをそれぞれ仏教的な悟りと修行の関係にあてはめると次のようにならないだろうか。
天の掟、自然の法 (自然法)・・・ 仏法
あらしめる力の条件(自然権)・・・ 人間は悟りえる存在であるという宣言
あらしめる力の普及(人権) ・・・ 衆生再度としての仏法流布
まず自然の法(自然法)があって、人間は修行の果てに仏陀になりえる存在であると宣言し(自然権)、実際に衆生を救済する布教を行う(人権)という構図。
本来すべての人間を悟りの悲願に導くために、仏の教えがあり、さらにすべての人々にその法門が開かれていることを示すための布教手段としての人権があるということ。
ここで仏教の教えが自然の法とイコールである、と断定するつもりは決してないけれど、仏の教えは、十戒などのように神からくだされた掟というよりは、仏陀が悟って得た、人間や世界を貫く法則という位置づけ。だから仏教の教えは天の掟、自然の法により近い性格を持っていることになる。
たとえば、仏教の説く、諸行無常や因果応報の教えなんかは、教えというよりは法則として考えるほうが適切と思えるほどの因果律を示してる。
仏教の教えが果たしてどこまで自然の法に迫っているのか、また自然の法全体に対してどれだけの部分を示し得ているのかどうかは分からない。
だけど仏教の教えが、天の掟、自然の法則を示しているのであれば、もちろんその教え(法則)は永遠不変であるから、教えそのものが時代に適合しなくなって救済力が失われるということはないはず。「この世のあらゆるものはすべて移ろい行く」という諸行無常の教え(法則)などは、おそらくは仏陀が生まれる遥か以前から存在し、今もなお存在してる。
もしも何がしかの宗教的教えが、たとえばイスラム教的な、戒律の固まりで人の自由意思の範囲を規定する場合は、その戒律が時代や環境にそぐわなければ不都合なことが起こることになる。豚肉しか食べられない国に行ったムスリムは飢えてしまう。もっとも他国へ旅をしている場合は戒律を必ずしも守らなくてもよいという規範があるようではあるけれど。
あるべき姿を求める人々にとって、人権思想はあくまでも「あるべき姿」(悟り)へ向かう入口に立つための他力(方便)であって、そこから実際にあるべき姿(悟り)を得るかどうかは本人の努力精進、自力次第。
これはそのまま機会平等(他力)と結果を公平に処する(自力によって得る悟り)というロールズの正義論にかなりの程度シンクロしてる。
12.人の世を治めるのは神か人か
国家体制としての法を考えた場合、その根拠をどこに求めるかによって、体制は当然変わる。ひらたく言えば人の世を治めるのは神か人か、という問い。
人の世を治めるのは神という立場は人間に対して、神の教えという「戒め」と国家法で規定される「律法」という二重の規範を求めることになる。
そのとき、国家法が自然の法、または神の教えが根拠にある場合とない場合とでは、規範に対する尊守意識が異なってくる。
神の教えを根拠に持つノモスは「戒め」としてのインフォーマルな規範と合致するから、宗教的戒めを守ることがそのままノモスを守ることに繋がる。宗教的意識・信仰が強くなればなるほど自然とノモスを守る行動をする。
それに対して、神の教えを根拠に持たない人が決めた、人の世の法(実定法)は、特にそれが宗教的戒めと合致しない場合には、刑罰を受けたくないという自己保身に依存した尊法意識に社会秩序をゆだねることになる。
だから無神論であるとか、ノモスを自然の法(ピュシス)とまったく切り離した考えに基づいた法を適用する国家は、その社会統制力はより脆いものになってしまう。
ある国家や文明圏においてその法律(ノモス)がその国の歴史や伝統・文化といったあるべき姿を体現した「習わし」や宗教的戒律と一致すればするほど、その法律(ノモス)は社会的実効力を宿した有効なものになる。
そのとき大切なことは、人間という存在を修行の果てに神になれるとみるか、逆立ちしてもそんなの絶対に無理と見るかという観点。
人間が神になれるかなれないかという視点は、人間を善なるものか、それとも悪なるものとしてみるかのウェートづけをしている。
人間が神になれるという立場は、人間が神なる属性を宿しているとみるから人間を善なるものととらえているし、人間は神にはなれないとみると、哀れな子羊として容易に悪に染まる存在になる。
前者は修行が成り立つけれど、後者に至っては、どんなに努力しても神様になれないのだから、修行そのものが意味のないものになってしまう。
国家をあるべき姿に無限に近付いていけるものにしようと願うなら、あるべき姿にあらしめる力が従属する関係、つまり自然法と自然権、人権の各々に修行論的な関係が成り立たなくちゃいけない。
そのためには、人間を善なるものと見るという前提が必要で、そうして初めて人間の自由意思において、一定の規範のもとにあるべき姿に向う社会を作ることができる。
13.あるべき姿と民族自決
国家としての法律を決める時には、前にも触れたとおり、性悪説的に人間をみればみるほど、罰則規定を強化して、ある意味、恐怖による統制を下敷きにした社会が出来上がるし、性善説的にみればみるほど、罰則はより少なく、規制がより少ない自然に任せるような社会になってゆくもの。
これは、国民からみても同じであって、国家を性悪説でみればみるほど、国は悪いことをしているに違いないから、国のいうことに従う必要はないと脱法ばかり考えるか、国はいちいち個人を規制して口をだすべきではない、政府などないほうが良いのだ、と考えるようになる。
こうした考えの人々がいくら集まったとしても、もともとの考えがバラバラでかつ権力を無視するから、そんな国家はとても脆くて、なにかの拍子にすぐ崩壊することになる。自力というよりは、むしろ自我力に近いのかもしれない。
また、国家を性善説でみると、国の行うことは全て国民のためということになるから、基本的に尊法精神が生まれ、国家秩序は保たれる。その反面、なんでも国家に頼りがちになって、国民主体の改革の力が失われてゆくこともある。
小さな政府というものの利点は、もちろん無駄を省いて行政の効率を上げるというのもあるけれど、性悪的にみれば、国家が悪事を働く余地を減らすことになるし、性善的にみれば、国家が口出しできる範囲が狭くなるから、国家に頼らず国民の善性に依拠した自立自尊の社会を作るしかなくなるということを意味してる。
国家理念や国家法を考えたとき、ノモスと国家を形作る民族のあるべき姿が一致すればするほど法の尊守意識が高まる。だから、国の立場からいえば、そのような法を制定したほうが国民が団結しやすく統治しやすい。畢竟そんな法を求めることになる。
ここで重要になるのが民族自決の問題。
14.チベットの理想
民族自決権は、1789年のフランス人権宣言において、その思想的根拠を明確に表明しているとされ、第一次世界大戦の際に、アメリカのウィルソン大統領が十四か条の平和原則で提唱したのがその始まり。 第二次世界大戦後には、国連憲章の中で人民自決の尊重が盛り込まれ、今では広く認められている。
この民族自決という問題は、民族としてのあるべき姿に差異があるが故に起こる問題だと捉えることもできる。
たとえば、チベットの人たちにとって、自分たちの求めるあるべき姿とは仏と共に生きること。
信仰心の厚いチベットの人達にとって、チベット仏教の総本山である大昭寺に一生に一度はお参りするのが念願で、お金は生活できるだけあればいいという。
このような欲望から遠く離れた人生こそが「あるべき姿」とする民族にとって、活仏や精神文化を守ることは第一の正義。
このような慎ましやかな、チベット人が望むあるべき姿は、ダライラマ14世睨下の云われる、「高度な自治」で十分達成できるであろうもの。だけど中国共産党政府はそれを破壊し、自らの思想統制の下に入れようとしている。
ダライラマ14世睨下がインドへ亡命してから、はや60年になろうかというチベットの現実をみるにつけ、中国との対話による高度な自治の獲得なんて、そんな悠長なことは言ってられない。独立しない限り絶対無理なのだ、と一部の急進的チベット人が考えたとしてもおかしくはない。
チベットを例にとれば、どうすればあるべき姿が実現できるかという見解によって、正義の居所は変わる。自然法に従うか、自然権に従うかの違いがそれ。
15.チベットにおける自然法と自然権の対立
仏法を自然法として置き換えると、チベット人が須らく願うのは仏法=自然法に従った生き方そのもの。だから、自然法に従う正義とは仏法に適ったものでないといけない。ダライラマ14世睨下が一貫して中国との対話による高度な自治の獲得、暴力に訴えない手法は、仏法に適ったもの。この路線は自然法に従った正義。
それに対して、ダライラマ路線のような悠長なことでは、高度な自治なんて獲得できやしない、武力を用いてでも、独立しない限り絶対無理なのだという考えもある。これはチベット急進独立派が主張するものであるし、チベット人は生まれながらにしてチベット人としての生き方をする権利があるのだという、いわば自然権の考えに通じている。
だから、この意味において自然法と自然権の考えは互いに対立することもある。
双方とも共にチベット人としてのあるべき姿、仏法にもとづいた生き方、自然法を求めてる。ただそのための手段が違うだけ。でも現実世界をどのようにみるかによってその見解が分かれてる。
ロック的な性善説で世界をみれば自然法だけでも生きていける。だけど、ホッブスのように将来も生きていられる確証がなければ、自然法を主張しても意味がないと性悪説にみるのであれば、武力闘争も止むなしとなる。これはそのままチベット内部の対立構造と同じ。確かに中共政府の民族浄化政策を受けつづければ、チベット人が明日の命に危機感を持つのも当然であるともいえる。
だけど、ダライラマ14世睨下は自ら法王であるがゆえに、仏に帰依しているが故に仏法を捻じ曲げることはできない。どんなことがあっても自然法的立場から離れることはない。
16.理想国家
人権が修行論的な正義の社会、ノモスとあるべき姿が一致してゆくような社会の中にあるとき、その民族間のあるべき姿の差は無視できないものとなる。それを更に束ねようとすると、民族別に異なっているあるべき姿のさらに上位概念となる、普遍的価値観、完全に純粋な意味での自然の法(ピュシス)を持ってこなくちゃいけなくなる。
アメリカのような多民族国家では、民族間のあるべき姿の差が当然あって、縁起の縦糸はそれぞれ違う色になっている。それを束ねるために、自由と平等という価値観を普遍的価値観として国家法にして、縁起の横糸で束ねている。
しかも、聖なる個人的価値観と俗なる社会的価値観を分離して、縁起のレイヤーでいう上位レイヤーの横糸だけでどうにか束ねているような状態。縁起の縦糸にはあまり触れていないから、民族別のあるべき姿の差はそのまま手付かずで残されている。
日本は原則単一民族で、個人の価値観も社会的価値観も分離していない国。
しかもノモスとあるべき姿を一致させる前提となる性善説が伝統として価値観の根底にあるから、国家法から日本社会をみた場合でも、極めて修行論的な正義、ノモスとあるべき姿がきわめて一致している国家だといえる。
ただ、そのような性善説を根底にもつ法の支配する国自身はとても素晴らしいものではあるけれど、周辺の国々すべてがそうであるとは限らない。
ノモスとあるべき姿が一致していない国もあれば、多民族国家のように、あるべき姿そのものが民族別に異なったりしている場合もあるし、あるべき姿そのものに神が介在しない無神論の国さえある。
国内を統べる法としては、性善説でよいかもしれないけれど、対外外交的には隣接国の性格をよく見定めて対処する必要は当然ある。自分から攻撃することはなくても相手に攻撃させないだけの備えは必要。それは智慧にあたる部分。
国家としての正義を決める場合、それを規定する根拠には、神または自然の法は介在すべきであり、また同時に人間が仏神にもなりうる存在とみて国家建設をするときに、国家の正義は最大の力を発揮する。
その時にあらわれる正義は修行論的な正義構造を持ち、国民全てが一定の規範の中であるべき姿・理想の姿に向かってゆく理想国家でもあるのだ。
(了)
参考文献:世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち (講談社プラスアルファ文庫) 副島 隆彦 (著)
ヨーロッパ思想入門 (岩波ジュニア新書) 岩田 靖夫 (著)

この記事へのコメント
pontomo
より一部引用させていただきました。
「自然法と自由の関係」が別の切り口からわかりやすかったので。
以下引用>
個人主義、集団主義の観点からいえば、私は次のように考えます。
個人よりも集団を重んじる集団主義によって、日本社会の秩序は保たれてきた。しかし、そこに個人主義が広まり、「自分の好きなことをして何が悪い!」ということになり、結果的に社会が乱れてきた。
本来の西欧個人主義は、人間一人一人が、神(またはそれに基ずく法やルール)の前に立つ自律的人間だととらえます。個人は自由に行動して良いが、当然、神または法の前になすべき行動基準があり、個人の行動は個人で責任をとらなくてはならないのです。それが、自律的人間です。
ところが、個人主義を勘違いしてしまって、「神」を抜きにして、単に集団よりも個人(自分)を優先させることとした、ゆがんだ個人主義を持つ人々が増えてしまったのでしょう。なすべき行動基準もなく、個人で責任をとる気もありません。
poncho
ロールズの正義論とのシンクロを説かれている部分、非常に納得しました。
近代の自由思想成立の系譜、現代の正義(富)の配分問題、
いずれの観点からしても、
宗教的精神(他力)と自助努力(自力)がこの順で基礎となりますね。
mor*y*ma_*atu
つい先日「ヲシテ文献」に興味を持ち池田満氏のHPなどを読んでいましたところ、
縄文時代にすでに憲法を持ち、古代文字を持ち、日本人の「公」の概念が確立
されていたとあり驚愕しました、本日のお題「正義」を考える際の日本人にとって
の正義を考えるヒントになるかもしれません。
『ヲシテ文献(ホツマ)の世界へようこそ _ 池田 満の案内』
http://www.zb.ztv.ne.jp/woshite/index.html
日本の上代(かみよ)においての、憲法ともいえるもの。この存在が発見されたことは、まさに画期的なことといえよう。
つまり、日本は、縄文時代の昔から立憲君主の政治体系を備えていた事になる。この歴史は、自国だけには留まらず、遠い将来には他国の人々にも影響と恩恵を齎してゆくものと、筆者は想定している。
『フトマニ』にも、‘トノヲシテ’の雰囲気を窺い知れる項目がある