
複眼思考という言葉がある。物事をひとつの眼ではなく、複数の眼で捉えるということ。
様々な事象を色々な角度で捉えるということで豊かで柔軟な発想を得ようという思考法だけど、ひとつ注意すべき点がある。
それは、俗に、世にいう複眼思考とは、単に別々の視点で見るというニュアンスが強く、視点に高さ方向があるという観点が少ないのではないか、と思われること。
視点の高さ方向とは何かというと、高次な見方。弁証法でいう止揚。
いくら、複眼思考で色々な見方ができたとしても、それらを止揚する、全体として束ねることができなければ、定見のない考えとなり、自分と違う考えの人を理解することは出来ても、その人を説得したり、糾合する力とは成りえない。
だから、ある事象について複眼思考で見る時には、個別バラバラに見える事象を止揚する、統一するという立場を含めることが非常に大切。そうして、始めて3次元的見方をすることが可能になる。
では、止揚する立場に立つためには、どうすればよいのだろうか。
そのためには、事象の原因を追求する立場である「なぜそうなのか」から離れる必要がある。「これこれは、これが原因でそうなっているのだ」ではなくて、「なにゆえに、それがそうであるのか。」という立場で事象を見る必要がある。
ひとつひとつの見方は、多かれ少なかれ、確かにその事象の性質の一部を捉えてはいる。だけど、それらは、やはり性質であって、表面上に見えるものにしか過ぎない。
それらを統一・止揚するためには、その性質が何処から生まれてきて、何のためにそうであるのか。「なぜそうなのか」ではなく、「なにゆえにそうであるのか」という視点が必要不可欠になってくる。
例として、子供に「雨はどうして降るの?」と聞かれたとしよう。このとき、「水分が蒸発して雲になって、やがて雨になるんだよ」と答えるのと、幼い子供に言い聞かせるときのように、神様を持ち出して、「生き物が喉が渇いたら可哀想だから、神様が降らしているんだよ」と答えるのと、どちらが「なにゆえに」に答えていることになるだろうか。
幼い子供は、おそらくは、雨が何故降るのかに対する答えとしては、「水分が蒸発して云々…」よりは「神様が降らせている」という答えにより納得するはず。
「なぜそうなのか」はプロセスだけど、「なにゆえにそうなのか」は目的そのものを指し示している。
物事は目的があり、それを実現するためのプロセスがあるから、「なぜそうなのか」よりも「なにゆえにそうであるのか」のほうがより事象の本質に迫っている。この「なにゆえに」こそが、Z軸視点で事象を見る鍵になる。
まぁ、そうは言っても、雨や風のように自然現象にまで「なにゆえに」を求めるのは少々無理があるのではないか、という声も理解できなくはないし、誰にでもそうした理解を求めるのも、難しい事は確か。
だけど、だからといって、そうした考えを全く否定する理由にはならないし、自然と共存した生き方をしたいと願うのであれば、「なぜそうなのか」ではなくて、「なにゆえにそうであるのか」から出発したほうが、より深いレベルでの共存が可能になると思う。
今のように科学文明が発達して、物事を細分化して分析的に見ていくことが多い時代であればこそ、逆に別々のように見える事象でさえも、より高次な視点で統合してく見方が求められてくるように思えてならない。
平安時代というのは、人間の生き方や考え方などが、宇宙的にすべてリンクしていた時代だったのだなと思う。・・・・・・機械などの文明が発達していない分、当時の人々は人間の持つ能力をフル活用していたのではないだろうか。平安時代はそのピークだったように僕は思うのだ。
コンピュータもなにもない時代だったからこそ、人間の感覚がフルに活用され、雅楽を始めとして、自然と共存する深い文化が生み出されたのではないかと。東儀秀樹著 「雅楽」より

この記事へのコメント
mor*y*ma_*atu
参照URL
【宗教と科学】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99%E3%81%A8%E7%A7%91%E5%AD%A6
日比野
。人が認識できる事象は、あくまでも五感で観測できるものでしかありません。それに対して、モデルを組み立て、「どうして」を説明することで、知識を蓄えてきました。それに対して「なにゆえに」に答えるのは、もう一段難しい。目的を探る洞察が必要になるからです。
仰るように、新たな領域に対して「どうして」と「なにゆえ」の分離が難しいのは、モデル化する時点で、哲学的・宗教的洞察が必要になるからなのかもしれません。
オーパ
おはようございます。
毎日、深い洞察の記事ありがとうございます。
楽しみにさせていただいてます。
こあたりは、やはり宗教的素養がなければ、どうしても唯物論的説明に終始してしまいますよね。
大川総裁のように、平易な大和言葉で、どのような質問にも答えられるようになりたいと思ってます。
やはり、宗教の時代到来が必要とされているのかも知れませんね。
今後の記事も楽しみにしています。