人の個性によって、同じ事象であっても様々な見方があるけれど、それらの見方について、全部正しいのか、間違っているのか、はたまた上下のレベル差や左右といった立ち位置の差があるのかないのか、という観点がある。
言い代えれば、それぞれの見方について、三次元的な座標はどうなっているのか、という観点ということ。なぜこのように考えるかといえば、弁証法を意識しているから。
弁証法とは、ふたつの矛盾する概念をより高い段階で統一することだけれど、その為には、Z軸という高さ方向を設定しなければならない。X軸、Y軸で構成される平面空間では、個々の見方はどこかの座標に位置するだけで、相手の見方は相対関係でしか把握できないから。自分から相手は見えるけれど、自分で自分を見ることは出来ない。これが平面空間での認識限界。
仮に、この平面空間にZ軸を設定し、上から見ることができたとする。この場合には、自分も相手も、それぞれの座標位置を同時に把握することが可能になる。この視点では、自分の見方も、相手の見方も全体から見てどのように見えるのか、という立場に立つことになるから、より高次で、より客観的な判定を下すことが可能になってくる。従って互いの見方を統一できる可能性が出てくることになる。
理解の手助けとして、平面的には互いに違ってみえるけれど、上からみれば統一される具体例を挙げてみる。
今の日本には、様々な仏教寺院がある。浄土宗であるとか、曹洞宗であるとか、それぞれがそれぞれの宗派を名乗っているけれど、個々の教えやスタイルをつぶさに観察すれば、決して同じじゃない。ひたすら只管打坐するやり方から、浄土往生を願い称名念仏するところまで、実に様々。
だけど、それらも大きな枠組みでみれば、仏教という概念で統一されている。これを3次元空間座標で表してみる。
仮に、X軸に他力的な念仏宗を軸にとり、Y軸には自力的な座禅を取ってみる。この平面空間では、浄土宗のような念仏宗はX軸の極みにあり、曹洞宗のような禅宗はY軸の極みに位置してる。平面空間上では、互いの座標が一致することはない。そこで、次に、Z軸として時間を設定してみる。このZ軸は、上にいくほど時間を遡り、下に向かうほど時間が経過してゆく方向の軸。
この時間軸を追加した3次元空間において、Z軸を上の方向に、即ち、時間をどんどん遡っていけば、お釈迦様が教えを説いた時点まで遡ることができる。
そのZ座標においては、仏教の全ての宗派の座標が一致している筈。そして、更にZ軸を遡る途中の空間を凝視すると、元はひとつであったお釈迦様の教えが、時代時代で分派しては別れ、それぞれの3次元座標に位置してゆく様が見てとれることになる。

この記事へのコメント
GT.
いつも読んでおります。
浄土系の宗教は外挿すると釈迦まで行くんですかねえ?
本来、阿弥陀如来を唯一絶対とした「他力」という記憶があります。
「仏教」でくくってはいるものの、
他の一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)との違いの方が
小さいのではないでしょうか。
禅系は「自力」が主みたいですし、むしろ哲学に近そうですね。
釈迦の悟りの逸話から考えても問題なさそうですが。
以上。
日比野
鋭いツッコミありがとうございます。
少々、思考の方法論に捉われて、いつも全ての事物がさかのぼることで、何かに収斂できるか否かという根本についての思索が浅かったようです。
確かに、仰るように、浄土系は仏教で括ってはいますが、その中身をみると、仏教よりは、キリスト・イスラム教に近いでしょうね。
もっと厳密になると、原始仏教・上座部が仏教であって、それ以外は仏教ではない、という見方もできますね。
そう考えれば、なぜ、それほど違うものが、「仏教」という枠の中に入ってきたのか、又は入ることができたのか、と、また別のテーマが出てきますね。
このあたりも面白そうです。