認識と個性(認識力について考える その1)

 
認識力について考えてみたい。全4回シリーズでエントリーする。

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辞書で「認識」をひくと、こうなっている。

にんしき [認識]

〈スル〉 物事を十分に理解し,その意義を知る‐こと(心の働き).

▼~不足(ぶそく)
正しく判断するための認識が欠けていること.

▼~論(ろん) 4
認識の起源・本質・限界について研究する哲学の一部門.

三省堂WEB Dictionary より


認識の定義は「物事を十分に理解し、その意義を知る」だから、必然的に認識力とは「物事を理解し、その意義を知る力ということになる。」

認識力を考える上で、大切な点がある。それは、「物事を理解するだけでは認識したことにはならない、ということ」。辞書の定義にもあるように、もうひとつの要素である「その意義を知る」ということと合わせて初めて「認識」したことになる。


言葉を代えていえば、ある事象があったとして、その意味であるとか、価値を知らなければならないということ。

もちろん、どのような事象であったとしても、その意義は一つとは限らず、沢山ある。

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たとえば「樹木」という事象を取ってみると、その意義とは何だろうか。ひとつは二酸化炭素を吸収し、酸素を供給して大気を安定させる存在という意義があるし、大地に張った根によって土壌を安定させるという見方もできるだろう。はたまた小鳥や昆虫などの住処を供給する存在という見方もある。

こうした、在る事象に対する様々な見方というものは当然見る人の経歴や立場、知識によって違ってくるもの。普通の人にとって「樹木」はただの「木」にしか過ぎないけれど、たとえば、林業に携わっている人であるとか、樹木医のように木のお医者さんであれば、また違った見方をするに違いない。何故かと言うと、興味関心の度合いや樹木に対する知識が一般の人より豊富だから。

この見る人の立場によって物事の見え方が違ってくるという点はとても重要。自分と他人とが同じ事象を見ていたとしても、同じ認識をしているとは限らないことを意味するから。これを私達は個性と呼ぶ。

個性とは、その人独自の性質ということだけれど、それは、事象に対する認識の違いの差であると定義すれば、その性質は本人の知識と経験によって形成されることになる。

人生において全く同じ知識、同じ経験を有する人は二人といないから、個性は生きている限り無くならない。それどころか、時と共に変化していく可能性を有していることになる。

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