文章の格調について考える

 
今日は、事情により過去シリーズエントリーを再掲します。

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1.ウェブ2.0革命

文章の格調について考えてみたい。

最近流行りの言葉で「Web2.0」というものがある。これは、2004年にティム・オライリーらによって提唱された、ウェブの新しい利用法を総称するマーケティング用語のこと。

始めてこの概念が提唱されたとき、その定義が明確でなかったこともあって、その後このWeb2.0という言葉は色々な人がいろいろな解釈で使用するようになってしまった。今では意味のはっきりしない「一人歩き」してしまった単語(バズワード)として扱われることも多い。

今では、おおよそ、ネットの世界での双方向のやり取りが活発化してきた現状を踏まえ、情報の送り手と受け手が流動化し、誰でもがウェブを通して情報を発信できるように変化したということを示す言葉として使われることが多い。

誰でも情報の送り手であり、受け手でもある双方向化が進んでくるとそれに従って社会構造も変化していくのではないか、という疑問はあって当然。

ソフィアバンク代表の田坂広志氏は、Web2.0革命によって衆知創発と主客融合、感性共有という3つの革命が始まると述べている。

「衆知創発革命」とは、「衆知」が集まることで「新たな智恵」が生まれる革命。誰でも簡単に、人々の智恵を集め、世の中に存在しない新たな智恵の創発を促すことができるようになること。

「主客融合革命」とは、情報を発信するだけでなく、企業やメディアに働きかけ、一緒に新たな商品やサービス、コンテンツを生み出すことが可能になり、企業と顧客という「主」と「客」が一体化してゆくということ。

そして「感性共有革命」とは、動画共有サイト「YouTube」などによって、音声や映像など言葉で表し切れない所作や智恵、言葉を超えた感動や感情も共有できるようになることで、一部の人々が独占していた知識や智恵を共有・共感して、「権力の移行」が起こるということ。

確かに、衆知が集まり、生産者と消費者の距離も無くなり、文字だけでなく音声・映像といった、より感情や感覚に訴える情報が広く一般に共有されることによって、情報の独占がなくなって、誰でも同じ土俵に立てるようになるから、従来の間接民主主義的な権力構造から直接民主主義的な構造への革命が起こるというのは納得できる。



2.「知の性能」が目に見えてくる社会

田坂氏によれば、Web2.0革命後は、苦労して学んだ「知識」がすぐに陳腐化して「知識」が価値を失っていく社会になってゆくという。

誰でも情報を扱えるようになり、それが文字だけでなく、YOUTUBEといった音声や映像情報をも発信できるようになる社会では、既存の情報の持つ意味が変わってくるということなのだろう。

特に知識が価値を失うという指摘について「知の性能」の観点から考えてみても、確かにそのとおりだと言える部分がある。

知にはそれぞれ性能があり、それは知がもつ指向性という「方位」と、最先端研究の深度という「奥行き」と、その知識が通用する月日の「賞味期限」を、掛け合わせた体積として表記できる。

知識が価値を失うというのは、その「知」が有用でなくなるということ。知の性能を検証するときに、それを使用する人にとって使えるものであるかどうかが一番大切。

たとえば、「知の指向性」の軸で見たとき、その指向性が一致する人にとって、その知は有用であるけれど、そうでない人にとっては無用の知識。漁師さんにとって、海図や天気図を読めたり、潮の流れを見極る知識は有用だけれど、電機メーカーで働く人にとっては価値はない。

また、「知の専門性」の軸で考えてみても、最先端の研究発表は同じ研究をしている研究者にとっては非常に有益だけれど、小学生にその最先端の学問知識は価値を持たないのは明らか。普通は、そんな知識は小学生にとって使えるシロモノではないから。

そして「知の賞味期限」の軸で見ても、今のように、どんどん研究開発が進んで、時代の流れが早い社会では、古い情報、特に専門性の高い分野の知識なんかは直ぐに腐ってしまう。

こうしてみると、現代社会においては、知識が価値を持てる範囲や期間はどうしても狭く、短いものになってしまう。

その意味において、田坂氏の指摘するWeb2.0革命がもたらす、「知識労働者」が活躍できない知識社会の到来というのはほぼ間違いないことのように思える。

要は、社会に知識が溢れてゆくが故に、知識そのものの性能、効果、有用性が問われるようになってくるのだと言える。Web2.0革命とは「知の性能」が目に見えてくるという革命でもある。



3.集合知という市場

集合知という言葉もだんだん使われるようになってきた。集合知というのはその名のとおり色んな知が集まった状態を指すのだけれど、そこには「量」と「質」の二つの意味がある。

「量」の集合知というのは、その名のとおり知の量そのもの。何にも処理しない大量の生データとか、それらを処理して統計的なデータにしたものとか。

たとえば何かのアンケートを取ったときの回答用紙の束やそれらの集計結果なんかがそう。データの集積と蓄積、そして整理と分析。

「質」の集合知というのは、多数の人の見解の集合から導きだされるより良い「知」のこと。みんなが納得できる高い見識を指す。すなわち、アンケートの結果を結果として、そこから何を導きだすか、何が起こっているのか、何を行えばよいのか、といった的確で高度な見識と判断を導きだせるような知のこと。三人寄れば文殊の智慧。

Web2.0を迎えたネットの世界では、多くの人が双方向で繋がり、情報が共有されてゆくから、おのおのが持ち寄った知識の蓄積が「量」の集合知として堆積してゆく。そして人々同士の繋がりの広さによって、よりよい知恵が導かれ、「質」の集合知が醸成されてゆく。

あたかも、市場にくる人がおのおの自分の畑や山、海や河で採れた食材を持ち寄ってくるようなもの。それら食材が山のように積みあがったのが「量」の集合知。

そしてそれら食材の山の中から、この材料だったら、こう料理したら美味しくなるんじゃないか、と居合わせた人たちで喧々諤々やって、この料理が良さそうだ、と決まってゆくのが「質」の集合知。

ここで、食材を集めるという事と、その調理法を考える事において留意しておくことがある。それは、食材の分別と料理人の選定。

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4.集合知の構造

いくら食材が山のように積みあがっているからといって、手当たり次第使えばいいというものじゃない。新鮮なものもあれば、少々古くなって傷んだものだってあるかもしれない。中には河豚なんかのように、毒をもった食材だってある。

だから、集まった知識を使って料理をする前に、一度、食材をひとつひとつ点検して、分別整理しておく必要がある。このプロセスを飛ばして料理を作ってしまうと食中毒を起こしてしまう危険さえある。そうした食材の良し悪しを見極め、分別整理をする力は何かというと、「分析知」とも呼ばれるもの。

分析知とは知識や情報を収拾し、それらを分析・解析してその中身を見極める力。きちんとソースに当たって、その知識の信頼性を確認したり、データの意味をきちんと理解し、分析する力として発揮される。

そうやって、情報を取捨選択して、使える食材に整理した上でようやくどんな料理にしようかという相談が始まるのだけれど、そこでどんな料理人を呼ぶかで出来上がる料理は当然違ったものになる。

いくら沢山の人で相談すれば、より美味しい料理ができるはずだからといって、100人の料理人を集めたとしても、100人全員が板前さんだったら、出来上がる料理はほぼ間違いなく「和食」になる。100人がフレンチシェフならフランス料理。中華料理人だったら、中華料理になることは疑いようがない。

また、その100人の中で誰か一人が板長だったり、コック長だったり、特級調理人だったりして、残り99人がその部下だったりしたら、出来上がる料理は、そのリーダーの一存で決まってしまう。

こうした状況下で「質」の集合知を成立させることは難しい。

『The Wisdom of Crowds』を著した、New Yorker誌のコラムニストJames Suroweickiによれば、「Wisdom of Crowds」(群集の英知、集団の知恵)が成立するためには次の4つの条件があるという。

(1) diversity of opinion (意見が多様なこと)
(2) independence of members from one another (メンバーが互いに独立していること)
(3) decentralization (中心を持たないこと)
(4) a good method for aggregating opinions (正しい方法で意見を集約すること)


これらが満たされれば、たとえ個々のメンバーが正解を知っていなくても、また合理的では必ずしもなかったとしても、その中の最も優れた個人よりもグループの方が良い判断を下すという。

先ほどの料理人の例えで言えば、板前さんばかり集めてもダメだし、誰かを料理長にして、全員を統率・指揮させてもダメだということ。

多様な意見の中から、検討し、纏めてゆく知は、様々な角度から対象を見ることができて、かつ総合的に最も良い結論を導き出す力。それは「統合知」とも呼ばれる。



5.集合知の二つの性質

「集合知」とは、多様な知識の集積とその分別を行う「分析知」と選別された知識から最高の結論を導きだす「統合知」の和で構成される。

「分析知」と「統合知」には性質の違いがある。それはその使用目的に準拠してる。

分析知は食材の分別・選定に使用されるがゆえに、その食材が「傷んでいないか」とか「毒が入っていないか」といった、使える使えないというレベルでの分別が主な役割であって、食材そのものの味や栄養といった料理の美味しさに関わる部分にはあまり踏み込まない。分析・解析といった性質が強い。

それに対して、「統合知」は料理をどうつくるかといった目的に効力を発揮する、その食材の旬や味、栄養といった、より食材そのもの、本質に踏み込んで探究する知性という性質を持つ。どの食材とどの食材が相性がいい、とか、この食材にはこの味付けのほうがより美味さが引き立つといった、食材本来の美味しさを引き出す方向に発揮される。

集合知の二つの性質である「量」と「質」をそれぞれ良質なものとするためには「分析知」と「統合知」は欠かせない。どちらも無くてはならないもの。分析知がなければ、食材の質は落ちるし、統合知がなければ、美味しい料理は作れない。

分析して、切り分けで細かく分類する知性である分析知と、全然異なった分野を結びつけ纏めて行く知性である統合知はそれぞれ違った性質を持つけれど、これら二つの知性は、これからの社会でも必要とされるものだし、何かを思索するにおいても必要なもの。

最高の結論を導き出すところの統合知は、分析知の下支えがあってこそ、その結論の説得力は増す。分析知は、統合知の土台の役割として存在することを忘れてはいけない。

最高の食材と最高の料理人の二つが揃ってこそ、最高の料理が出来上がる。



6.日本語文章の論理

日本語で誤解されにくい文章を書こうとした場合、気をつけるべきは、論理の繋がりもさることながら、意味の限定をきちんと行うこと。日本語はSOV型言語だから、S(主語)とV(述語)の間に位置するO(目的語)がそれぞれ、どの言葉に対して掛かっているか明確にしないと混乱を招くことになる。

たとえば、以下の例文を考えてみる。

「僕は昨日美しい日本の山々を眺めてきた人に出会った。」

さて、この文で修飾関係で不明確な部分が二つある。「僕」と「美しい」の対象が何かというふたつ。

①僕が出会ったのは、今日なのか、昨日なのか?
②美しいのは、日本なのか、山々なのか、はたまた人なのか?

この二つに対してどれを修飾しているかの場合分けを次にしてみると、

① 僕が出会ったのは、美しい「日本の山々」を「昨日」眺めてきた人
①’僕が出会ったのは、「美しい日本の」山々を「昨日」眺めてきた人
①”僕が出会ったのは、「日本の山々」を「昨日」眺めてきた「美しい人」
② 「昨日」僕は、(美しい「日本の山々」を眺めてきた人)に出会った
②’「昨日」僕は、(「美しい日本」の山々を眺めてきた人)に出会った
②”「昨日」僕は、(日本の山々を眺めてきた「美しい人」)に出会った

と、なる。

とはいっても、実際に日本語の文では、直後の単語を修飾するのが普通だから、可能性が高いのは、①か②だろう。①’、①”や②’、②”は少し斜に構えたような解釈の仕方になるのだろうけれど、論理的には、こういう解釈もできなくはない。

難しいのは、「昨日」がどこに掛かっているか。ここは、”「昨日」眺めてきた人”と取るか、”「昨日」僕は”と取るかは人によって違うように思われる。

ここで、試みとして、この文を機械翻訳で英文にしてみる。ネット上ではいろんな会社から機械翻訳サービスが提供されている。当たり前のことだけど。原則として機械翻訳は「機械」が行う翻訳。だから、何がしかの規則、法則をプログラミングして、それに基づいて翻訳している筈。よって、この例文のように、修飾語がそれぞれどこに掛かっているか分かりにくい文を「機械」がどう解釈しているかを見ようという少し意地の悪い実験でもあるのだけど。

機械翻訳ツールとして、Infoseek、GOOGLE、Excite、Yahoo、nifty、So-netなどを使ってみる。

結果は次のとおり。

・Infoseekマルチ翻訳:http://translation.infoseek.co.jp/
I met the person who looked at the beautiful Japanese mountains yesterday.

・Google翻訳:http://translate.google.co.jp/translate_t
Yesterday I view the beautiful mountains of Japan to have been met.

・excite翻訳:http://www.excite.co.jp/world/english/
I met the person who had been looking at mountains in beautiful Japan yesterday.

・yahoo翻訳:http://honyaku.yahoo.co.jp/transtext
I met the person who looked at the beautiful Japanese mountains yesterday.

・nifty翻訳:http://tool.nifty.com/globalgate/
I met those who have looked at the mountains in Japan beautiful yesterday.

・So-net翻訳:http://www.so-net.ne.jp/translation/
I met the person who looked at the beautiful Japanese mountains yesterday.

・SYSTRAN :http://www.systran.jp/
I encountered the person who watches the yesterday beautiful Japanese mountains.


Infoseek、yahoo、So-netは②の解釈で翻訳し、exciteは②’に傾いたようだ。
Googleは②の”「昨日」僕は、”と解釈したまでは良かったけれど、そのあとはだいぶ苦しい翻訳になってしまった。

それに引き換え、日本の会社の機械翻訳はそれなりに日本語をきちんと解釈できているようだ。餅は餅屋か。

ただ、”「昨日」眺めてきた人に出会った”という、①、①’、①”の解釈にはあまりならないようだ。



7.意味の多様性

機械翻訳の例でみたとおり、修飾語の掛かりの位置には注意すべきで、目的に合わせて単語の並びを入れ替えたり、句読点を間にいれるべきなのは当たり前になるのだろう。先ほどの原文で修飾語のかかりをそれぞれさらに明確にした文にして、再度翻訳を試みてみる。

原文:「僕は昨日美しい日本の山々を眺めてきた人に出会った。」

書換文
① :僕は、日本の美しい山々を、昨日眺めてきた人に出会った。
①’:僕は、美しい日本の、山々を昨日眺めてきた人に出会った。
①”:僕は、日本の山々を、昨日眺めてきた美しい人に出会った。
② :昨日、僕は日本の美しい山々を、眺めてきた人に、出会った。
②’:昨日、僕は美しい日本の、山々を眺めてきた人に出会った。
②”:昨日、僕は日本の山々を、眺めてきた美しい人に出会った。

これら書き換えた文をinfoseek翻訳にかけると、、

① :I met the person who looked at the Japanese beautiful mountains yesterday.
①’:I met the person who looked at the beautiful Japanese mountains yesterday.
①”:I met the beautiful person who looked at the Japanese mountains yesterday.
② :I met the person who looked at the Japanese beautiful mountains yesterday.
②’:I met the person who looked at the beautiful Japanese mountains yesterday.
②”:I met the beautiful person who looked at the Japanese mountains yesterday.

となった。

少し単語の並びや句読点を整理しただけで、①、①'、①”や②、②'、②”それぞれのニュアンスの差はきちんと翻訳されている。ただ、①系統と②系統、「昨日」が眺めてきた人にかかる場合と僕にかかる場合との見極めがうまくいかない。どちらも同じと解釈されてしまうようだ。他にもいろいろ試してみたのだけれど、結果は同じ。

今後、機械翻訳の精度が上がるにつれてこうした問題も解決してゆくのかもしれないけれど、いずれにせよ、文章表現はちょっとした書き方に気をつけるだけで、ぐっと分かり易さは増す。

要は文における「意味の多様性」が文の曖昧さに繋がるということ。これは修飾語のかかりだけでなくて、単語レベルでも同じ事がいえる。同じ単語でも人によって受けるイメージに差が起こることによるコンテクストのズレなどがそう。

そうしたズレを最小にして、正確にものを伝えようとすると、やっぱりその内容の背景や条件を修飾して、意味の限定をするか、伝えたい内容の概念を正確に定義した「造語」でも使って表現するしかない。でもそんな文章は往々にして分かりにくいものだし、文の味わいというものも消されてしまう。



8.文章の効果とは何か

『先ごろある外人のパーティに私は行って、一人の小説家にこう尋ねたことがあります。あなた方は小説を書くときに、印刷効果の視覚的な効果というものを考えたことがありますか。彼ははっきり答えて、絶対にないと申しました。
 われわれから見ると、Yという字が下に長くのびていたり、Lが上に長くのびていたり、英語の印刷上の効果の多少の起伏や凸凹があるというところが面白いと思われるのですが、外国人はついぞそういうものに注意を払ったことがないらしいのです。
 そのかわりどんな散文であっても、外国の文章は耳からの効果がある程度大切にされなくてはなりません。もちろんそれが行進曲だの、ワルツだのというような派手な音楽的効果でなくても、無韻の韻といった音のないところから生ずる静かなリズム、人間の内的なリズムが感情にあらわれたようなリズムは、あくまでも重んじられなければなりません。しかし象形文字を持たない国民である彼らは、文章の視覚的効果をまったく考慮しないで綴ることができるのであります。
 われわれにとっては、一度、象形文字を知ってしまった以上、文章において視覚的効果と聴覚的な効果とを同時に考えることは、ほとんど習性以上の本能となっております。』


三島由紀夫の「文章読本」からの抜粋だけど、三島由紀夫によれば、日本語の文章においては、その視覚的効果と聴覚的な効果を同時に考える本能があるという。

日本語の文章に視覚と聴覚の二つに訴える効果があるとすると、日本語の文章の味わいとは、視覚と聴覚それぞれの成分にその秘密が隠されているのではないかと推測することもできる。ひいてはそれが文章の格調に繋がる、とも。

通常、図像と音声を記号として処理する場合は、それぞれ別情報だから脳内で処理する部位もそれぞれ異なっている。

欧米語を話す人が失読症になると、まったく文字が読めなくなるけれど、日本語を話す人が失読症になると、「漢字」だけが読める人と、「かな」だけが読める人とにわかれるという。これは取りも直さず、図像処理と音声処理には、それぞれ脳の別の領域を使用していることを示している。

日本語の文章は象形文字をその淵源に持つ「漢字」と、表音文字である「かな」で構成されているから、図像記号と音声記号が混在した記号情報を持っている。

これらを苦もなく読んでいる日本人は、図像と音声を同時並行して脳内処理していることになる。

だから日本人にとって、文章に視覚効果と聴覚効果の二つを同時に考えるのは習性以上の本能であるという三島由紀夫の言葉はそのとおりだと思わせるものがある。



9.アスキーアート

アスキーアートというものがある。アスキーアートとは、記号などの文字を組み合わせて作成した絵のこと。画像を掲載する機能のない電子掲示板などにも使えるという特徴がある。古くはパソコン通信の時代から始まったとも言われ、今では2ちゃんねるや電子メールの署名(シグネチャ)などによく使われている。

アスキーアート自体は、日本のみならず、欧米でも使われているけれど、特に日本のアスキーアートは、他国と比べても非常に発展していると言われている。その要因の一つとして、ひらがな、カタカナ、漢字、英字、数字、記号といった多彩な文字種類やW半角スペースの影響を受けない全角スペースの存在などがあるとされている。

表現できる文字種類が多いことが、アスキーアートの豊富さに繋がるのは勿論なのだけれど、それ以前に、文字を記号的要素と図形的要素の二つを同時に考えるという日本人の文字に対する特殊な感覚が生かされているのではないか。

アスキーアートの中には、「’(ダッシュ)」や「/(スラッシュ)」といった、細かい点や線を駆使して、絵を描く「ドット絵」に近い表現方法がある。このやり方は、どちらかといえば、文字という要素をどんどん無くしていって、文字というよりは絵画の一表現方法になってしまっている。今では、アスキーアートジェネレータなる写真から自動でアスキーアートを作ってくれるツールもあるという。

だけど、単純な言葉をそのまま使って、かつ絵にみえるという優れたアスキーアートもまた同時に存在する。たとえば、少し昔に流行ったアスキーアートで「にしこり」というのがある。これは何を示しているかというと、実はニューヨークヤンキースの松井秀喜選手の顔を表している。

そう思ってもう一度見直してみると、確かに細めの目と頬骨のあたりの特徴が「に」と「こ」で見事に表現されていることが分かる。これは、文字としての「ニシコリ」という表音がそのまま保持されると同時に図形として松井選手の顔も表しているという優れたアスキーアートだといえる。

文字であると同時で絵でもあるというのは、それこそ象形文字に源流を持つ表意文字の特徴でもあるのだけれど、既存の言葉や文字を崩すことなく、こうした表現を可能にする感覚は、「漢字」という図像記号と「かな」という音声記号が混在した言語を母国語とする日本人の特質ではないかとさえ思えてくる。



10.言葉のニュアンスと意味の圧縮

表意文字である漢字はその成り立ちから、大きく次の6つに区分される。

1)象形文字:「山」、「川」といった、物の形を文字に適用したもの

2)指事文字:「上」、「下」などの抽象的なものを印で示したもの

3)会意文字:「林」、「見」などのように象形文字や指事文字などを組み合わせて一つの意味を表したもの

4)形声文字:「清」、「花」などのように、二つの字を組み合わせて半分は意味を、他の半分は音を表す文字のこと

5)転注文字:命令を意味する「令」という語が、やがて命令を出す人の意に転じて、「長」という語と同義になったようなもの

6)仮借文字:同音のあて字


これらの中で象形文字と指事文字の二種がすべての漢字の基本。これらは「文」(もん)と呼ばれ、原義では絵模様を表す。

漢字そのものには、語単独でも意味を持っていて、視覚的にそれが分かるようになっている。

たとえば、「しあわせ」という言葉は普通漢字で「幸せ」と書くけれど、「仕合わせ」とも書く。しあわせの語源は「しあわせる(為る+合わせる)」であって、 本来は「めぐり合わせ」の意味。時代が下るに従って、行為のめぐり合わせから、自分の気持ちに重点が移って「幸せ」と書くようになった。

だから、言葉の語源を良く知っている教養ある人ほど、同じ意味でも適切な言葉を使って微妙なニュアンスまで表現することができる。

それだけではなくて、日本語は聴覚的な要素でも複数の意味を持たせることができる。語呂合わせなんかがそれ。

カードの暗証番号や円周率、元素周期表を覚えるときに、よく語呂あわせをして覚えたりするけれど、あれは、一つの文章に異なる別の意味を圧縮して持たせている。なぜ、そんなことができるかといえば、同音異義語が沢山あるから。

日本語は漢字に対して割り当てることができる音節の組み合わせが少ないから、同音異義語の数はどうしても多くなってしまうといわれている。

だけど、逆にその同音異義語の多さが、語呂合わせを容易にしている。いきおいそれを逆手にとって、落語のオチに使ったり、マンガのオチに使ったりする。

翻訳家のローラ・シャーノフさんは、ドラえもんの翻訳についての苦労をこう語っている。

『特に苦労したのは冗談について。そのまま訳しても意味が通らない場合が多く、自分で考えなければいけません。いちばんうまくいったと思うのは、「ニューヨーク」と「入浴」を、イギリスの観光地「バース(Bath)」と「bath(風呂)」に変えたもの。でも「貝が10個で怪獣」なんて例はどうにもお手上げでした。』


だから、日本語の文章においては、文章を綴る人が、言葉を知っていればいる程、教養があればあるほど、高密度に意味を圧縮してなお且つ微妙なニュアンスまで表現できる文章を綴ることができる。それがさらに文章に深みを与えることになる。

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11.1/fゆらぎの文章

自然にはある共通したリズムが存在する。「1/fゆらぎ」と呼ばれるのがそれ。

1/fゆらぎとは、デタラメなリズムと規則正しいリズムをミックスした中間のリズムのこと。

「1/fゆらぎ」は人に快適感を与えると考えられていて、実際に人の心拍の間隔や、ろうそくの炎の揺れ方、電車の揺れ、小川のせせらぐ音や、木漏れ日、蛍の光り方、風鈴の音などに1/fゆらぎが発見されている。

最近では、わざわざ1/fゆらぎのリズムで風の強さを変えるエアコンや扇風機があるくらい。

文章の格調を考える上で、もうひとつの重要な要素になるのが聴覚的効果。日本語では、俳句のような五七五とか、和歌のように五七五七七でいえる言葉が響きが良く、美しいとされる。俗に言う美しいリズムの文章。

実は、日本語の美しい文章には「1/fゆらぎ」がある。

小林恒夫農学博士は、日本の古歌である万葉集や百人一首の歌を解析してそれらの殆どが1/fリズムを持っていることを発見した。

小林博士は、万葉集や百人一首の歌の文字を一文字づつ分解して、あいうえお順に番号を振って、それぞれの文字がどれ位の頻度で出現するかを解析した。その結果、百人一首100首のうち実に95首に1/fゆらぎが出現したという。また同様に万葉集短歌46首、長歌12首を調べた結果、短歌で42首、長歌で6首が1/fゆらぎを示すことがわかった。

古来からの名文や名歌と言われるものが長い年月に渡って語り継がれてきたのも、それらに内包する1/fという癒しのリズム、自然のリズムが多くの人々の心に染み渡っていったからなのだろう。

古典的教養を持っている人は、古典の持つ1/fゆらぎリズムの文章に馴染んでいる。だからそうした人が文章を書くと、ごく自然に1/fゆらぎのリズムの言葉を紡ぎだして、名調子の文章を書いてゆくことになる。

渡津海乃豊旗雲尓伊理比弥之今夜乃月夜清明己曾(巻1・15) 天智天皇

わたつみの 豊旗雲に 入日見し 今夜の月夜 さやけかりこそ
(わたつみの とよはたくもに いりひみし こよひのつくよ さやけかりこそ)






12.詩人の言葉

「なるほどと思えるけれども不可能なことの方が、なるほどとは思えないけれども可能なことよりも好ましい。歴史家はすでに起こったことを語り、詩人は起こる可能性のあることを語る。したがって、詩作は歴史に比べて哲学的である。なぜなら、詩作は普遍的なことを語り、歴史は個別的なことを語るからである。」
アリストテレス 「詩学」


詩人の綴る言葉は深い。普遍的な事柄を、美しいリズムに乗せ、ときには、さまざまな意味を言葉に込め、ごくごく短い文章で全てを表現する。

一つの言葉にただ一つの意味しか持たせない「哲学な」文章は、誤解を招く余地は凄く少なくなるのだけれど、それは物事を細かく細かく分類して分析してゆく「分析知」な文章でもある。

それに対して詩人がつむぎ出す文章は、少ない文字であっても、あらゆることを表現し、普遍的なことを示す「統合知」な文章。世界を圧縮した「哲学の」文章。

あたかも芸術作品を見るかよう。あらゆる解釈が可能であり、どこまでも考えさせるもの。

詩人の言葉が心をゆさぶる理由の一つには、その言葉に籠められた想いの密度が関係するようにさえ思える。

人や世界への探究を続けることでたどり着く、感性を研ぎ澄ました言葉。それは哲学でもあり、言葉が智慧や統合知にまで高まった姿。

心を揺さぶる言葉とは智慧の言葉であり、悠久の過去から無限の未来まで普遍でありつづける真理の言葉。

詩人入沢康夫は、詩についてこう語っている。

『何よりもまず、「詩には作者の気持が述べられてある」という《迷信》から脱け出そう。気持を述べるのは、散文の仕事だ。詩は述べない。詩は問いかけ、詩は求める。詩は探索し、詩は発信する。詩は、言葉で組み上げられた、内的宇宙(インナー・スペース)の探査衛星(チャレンジャー)だ。

 日常の、しごくありふれた言葉も、詩人によって選ばれ、あたらしい組合わせの中に取り込まれて、魂の夜空に打ち上げられると、それはいまだかつて誰一人耳にしたことのない不思議なメッセージを、――しかし、内的宇宙の《真実》に深くかかわるこの上なく正確な諸データをいっぱいに含んだメッセージを、読者の心に直接送り届けてくる。

 詩は、言葉で造られた、内的宇宙の探査衛星だ。ひとたび打ち上げられると、それは常に探索し、常に発信をつづけている。とうの昔に世を去った萩原朔太郎や宮沢賢治や中原中也の詩、もう何十年も以前に書かれた作品が、今でも私たちの心を揺さぶるのは、そのせいである。』


入沢康夫は、詩の世界において、言葉と言葉の繋がりの中で、内的宇宙の新たな真実を探り出す可能性を示唆している。





13.式神と言霊

「清明どのの言うその呪(しゅ)とは、つまり何なのだ?」
「そうですねぇ。たとえば、この世で一番短い呪(しゅ)は、名ということになりましょうか。」
「名?清明とか博雅という名のことか。」
「はい。呪(しゅ)とは要するに、物や心を縛ること。」
「物や心を縛る・・」
「あなた様は、源博雅という名で縛られております。その名がなければ・・」
「私はいなくなってしまうということか?」
「いえ、名がなくても、あなた様がこの世からいなくなるということではありません。」
「なにを言っているのか分からぬ。」
映画『陰陽師』より


映画『陰陽師』での、野村萬斎扮する安倍清明と伊藤英明扮する源博雅とのやりとり。

陰陽師とは陰陽道によって占術・呪術・祭祀をつかさどる専門集団。平安時代に活躍したとされる。

言葉は「ことのは」とも言い、これはコトの葉っぱ、事の端、一部分。言葉だけでは「事」にはならない。言葉を「事」にする為には、文章にして、叙述しなくちゃならない。そうやって初めて言葉(ことのは)が「事」になる。

「事」とは、何がしかの事件であるとか、状態であるとか、何かの行為とその結果を示すもの。事には必ず何らかの「運動」が含まれている。

だから、言とは、言の葉に運動形態を与えたものと捉えることもできる。

陰陽師がよく行う術の一つに式神というものがある。陰陽師は、和紙で出来た式札に「呪(しゅ)」をかけ、式神を生んで自在に操る。

式札といっても、もともとはただの和紙。それが陰陽師の「呪(しゅ)」によって、鳥や獣に姿を変える。使うだけなら、別に札のままで十分じゃないかと思うのだけど、実は、その何かの生物をわざわざ「模る(かたどる)」という行為によって、式札に運動形態を与えている。

これは言の葉という対象物を文章にすることで、運動形態を与えて「事(=言)」にするという行為と同じ。和紙の式札を鳥や獣等へ術師の意志で自在に姿を変えさせて使うことは、文章を綴ることと同じ。

和紙であれ、言葉であれ、対象に運動形態を与えるという行為は、それにいのちを与えて式神を生み出すということ。

日本語の文章は、最後に述語、往々にして動詞がくるけれど、この動詞という運動形態によって、言葉の式神が生み出されている。これが言霊の正体。

言霊は言の葉を、式神は和紙札(式札)を媒体として、運動形態が与えられ、命が生まれる。力が宿る。

だから、言の葉に与える運動形態の種類によって、生まれる"式神"は各々別の性質を帯びることになる。

映画「陰陽師Ⅱ」では、安倍清明が式札に色水で「舌」と書き、髑髏に食わせて喋らせるシーンがある。これも髑髏に「舌」という運動形態を与えることで、「喋る」という機能(性質)を与えている。

入沢康夫が示唆した、言葉と言葉の繋がりの中で、内的宇宙を探索する可能性とは、それぞれ別々の性質を持った言霊の式神が無秩序に並べられ、時には衝突して、思いもかけない世界を作り、見たこともないデータをキャッチするという可能性を示唆しているのかもしれない。

よく言葉の創化力とかいって、思ったとおり、話したとおりの事を実現する人がいるけれど、これは、その言霊が式神としての力を発揮した姿に過ぎない。

ここまでくると、その「言の葉」を「叙述」する人は、立派な言葉の陰陽師。詩人は、人の心を揺さぶるという性質を持った式神を次々と生み出す、言葉の陰陽師。

だから、言霊を識り、言霊の力を信じられる人はみな、式神使い、ある種の陰陽師でもあると言える。







14.心を浄化する文章

詩を例にとるまでもなく、文章には心を浄化する力がある。心が浄化を必要とするときというのは、心が曇っていたり汚れていたりするとき。

心が曇ったり汚れている状態というのは、心に余計なものがべっとりとくっついて離れないこと。つまり迷いや悩みや悪しき想いで一杯のとき。その一点に心が留まっている。

何かの問題を解決しようとして、色んな人の意見を聞いてみたり、あれこれ考えてみたりするけれど、前後左右、どこをみても、それぞれもっともらしい結論や意見が転がっていて、どれも一理あるようにみえてしまう。この中の一体どれが本当なのか、どれが正しい道なのか分からない。目の前に散らばっている「分析知」の山を前にどうしたらいいのか分からない。それが迷い。

だけど、「統合知」になると違ってくる。翼を広げて遥かなる天に舞い上がり、空から地上を眺める視点になる。無限とも思え、どれも正解にみえ、どれを選べばいいかわからなかった「分析知」の群れが、全部見えるようになる。それぞれの分析知の生成理由、立ち位置、はたまた分析知同士の関係なんかが、ひと目で全部わかる。地上でどれを選ぶかで迷うのではなくて、空からみていっぺんに全部わかる感覚。それが「統合知」。

文章が心を浄化するとはどういうことかといえば、その悩みで塞ぎこんだ心が自由になること。目からウロコが落ちて、急に視界が開けて、そういうことだったのかと得心する。心がスッキリする。あの感覚。


高度な認識力による統合知。

深い人間理解に基づいた、心揺さぶる詩人のたまゆら。

世界を識り、真理を悟り、光あふれる言霊の智慧。


そんな言葉で綴られた文章。それこそが悩みを断ち切り、迷いを晴らす智慧と希望。

心を浄化する文章とは、統合知をそなえ、凝縮された良き言葉の式神が、癒しの音律を奏でる文章。

そんな文章とめぐりあい、問い、求め、思索することで始めて得られる智慧。そのプロセスは、悩みから心が開放されてゆくプロセスと同じ。

思索の中の、叡智へ向かうプロセスを心に映して美しく表現するとき、迷いを解き放つ「浄化力」があふれだす。

自らの悩みや苦しみを解決し光に向かうとき、貴方の心は、他人をも浄化する言霊にみちみちている。

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この記事へのコメント

  • mor*y*ma_*atu

    日比野様のブログは最近知ったばかりなので、今回の様にまとめた形の過去ブログを掲載して頂くと大変面白いです。広範囲な内容とその情報のリンクの刺激がたまりません。また綺麗系の写真や音楽など本当にマルチメディアを駆使した内容は楽しいです。ところで「ヲシテ文献の世界」によりますと「表音文字」「表意文字」の2つの性質をあわせ持ち、更には「数」と「文」とも同じ文字で表現でき、七五調の様な文体で表現されるのが「ヲシテ文献」で縄文時代から続く大和言葉の古文書だそうで、今回のブログの内容と対比して大変興味深い内容でした。今後の過去ブログのご紹介を楽しみにしております。
    参照URL
    http://www.zb.ztv.ne.jp/woshite/index.html
    2015年08月10日 16:50

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