プロの仕事について考えてみたい。全4回シリーズでエントリーする。
作家は誰しも納得づくの作品を発表しているワケではありません。無限に時間がかけられるなら誰でも傑作が描けますが、我々は限られた期限に完成度をあげなければなりません。
気に入らない線や描き直したい構図もありますっ。もっといいセリフやオチも浮かびますっ。しかし〆切を守るために、それらを時に切り捨ててゆくのがプロの仕事です。
それはとても辛い決断ですが、今回の不満や心残りは次回で解消すればいいっ。そうしてプロとしてのレベルを上げてゆくのですっ。次回に繋げるためにも、今っ、間に合わせるコトが大事ですっ。「キャノン先生トばしすぎ 第七話」より
仕事の質と〆切の兼ね合い。難しいテーマ。冒頭の引用は、筆者も一ブロガーとして身に沁みて感じている。これは、ブログの記事を書く時も同じだから。
確かに、記事を書くのに無限に時間が掛けられるわけでもないし、書いたあとで、もっといい考えが浮かんだりもする。
だけど、〆切がある限り、どこかで記事を上げなくてはならない。そのギリギリの局面で、それでも記事の質を高めたいという意識は、それこそプロフェッショナルというべきもの。自らの作品に妥協しない、ということ。
プロであるためには、一定以上の技術や経験もさることながら、自分は「プロであるのだ」という職人魂というか、これで生きてゆくのだ、という覚悟が要る。
つまりプロの「気概」とでもいうべきものが、とても大きな要素のように思われる。
勿論、世の中には、「巨大な才能」を生まれながら持っていて、その「才能」だけで、十二分以上の作品を残せる人も居る。
その才能は才能として、当然活かしていくべきなのだけれど、それは「天才」というべきものであって、万人が目指せるものでもないし、時代がいつもその「才能」を受け入れてくれるとも限らない。プロとは少し意味が違う。
プロとは、いついかなる環境においても、一定以上の実力を安定して発揮できる者のことを云うのであって、時代が必要とするとかしないとか、自分が好調だとか不調だとか、とはあまり関係しない。
なぜならプロとは、その道の専門家であって、素人が安心して「仕事を任せられる」存在でなければならないから。
だから、自らがイメージする実力が発揮できなくなると、プロ根性を持つ人ほど引退を考えるようになる。
よくプロ野球選手が引退するときに、イメージどおりの球が投げられなくなった、とか、ファンにお見せするだけのパフォーマンスを発揮できなくなった、とコメントすることがあるけれど、そういうことなのだと思う。
マサカリ投法で一斉を風靡し、今もマスターズリーグで活躍する、村田兆治氏は、1990年の引退の年に9勝を上げ、引退試合ではMAX145キロのストレートを投げていた。それでも彼は、「納得のいくストレートが投げられなくなったんです」と言って現役引退した。
その後、村田氏は、還暦になりなんとする今でも、マスターズリーグで、140キロのストレートを投げているけれど、今度は140キロが出なくなったら、マスターズリーグを止めるという。プロの鏡と言っていい。
自分や作品に妥協しない、プロとしての最低限のことは何が何でもやりきる、という姿勢は、実のところかなり万能な能力であって、それがある限り、どの分野でもある程度の成功を治めることが期待できる。
なぜかというと、その気概が自らの「意思」を引っ張り、更なる向上を約束するから。
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この記事へのコメント
美月
仙人として山奥で完全に自給自足するのも悪くはないし、それはそれでカッコいい選択だとは思うのですが、一般的に「快適な社会生活」というのは、分業体制じゃないと絶対に維持できない…しかも、日本のような災害多発の国土では、天変地異に耐性を持つ、より質の良い分業社会が要求されてきたと思います。
そういう条件下では、見ず知らずの他人に大切な仕事をお任せするという事が必然的に発生する訳で、能力・経験ともに不安定で何が出来るのか分からない人よりも、ある程度実績を積んだ、品質の安定したプロ(しかも約束を守る人)に仕事をお任せするものなのですね。
「信用がある事」と、「真のプロフェッショナルである事」は、実は同じ事なのだなと改めて納得しています。
(※コメントへのレスは不要です…^^)
日比野
明日エントリーの「その2」の内容を先取りされてしまいましたね。(爆)
そういうことなんです。世の中はプロの仕事で支えられているんです。
明日のエントリーの内容は、このとおりですが、料理の仕方はちょっと変えていますので、そちらの方をお楽しみくださいませ。m(__)m